横浜中華街
山下町公園物語

中国風あずまや「会芳亭」
題字は高秀秀信横浜市長
20世紀初頭の横浜桟橋
(絵はがき・横浜開港資料館蔵)

 昨年、横浜中華街に新しい名所が完成。関帝廟通りにある山下町公園(別名、小公園)が整備され、中国風デザインのあずまや「会芳亭」が設けられました。
 公園で遊ぶ子供たち、近所の人、休み時間のコックさん、中華街に遊びにきた人…、この会芳亭のベンチで憩いのひとときを過ごします。
 この公園のある山下町135番地には、明治初期に「会芳楼」という劇場があり、居留地横浜の貴重な娯楽施設でした。のち1883年に清国領事館が新築されます。関東大震災、空襲で瓦礫の山と化したこの地は1960年に公園として生まれ変わりました。
 130年に及ぶこの公園の物語をしましょう。

1910年ころの中華街大通り
(絵はがき・横浜開港資料館蔵)
20世紀初頭の横浜居留地・本町通り
(絵はがき・横浜開港資料館蔵)

山下町135番地考
―中華街の歴史を刻む場所―
 山下町公園の所在地、山下町(旧横浜居留地)135番地は、中華街の歴史を語る上で、欠くことのできない大切な場所である。そこでこの土地に関わる歴史について紹介したい。

会芳楼の所在地
図1・会芳楼引札・中国の芝居の上演を告げるちらし
(横浜開港資料館蔵)
 幕末・明治の初年に横浜で暮らす中国人は1000人あまり。その中の有力者韋香圃(いかほ)は、1870年(明治3)頃、居留地135番地、現在の山下町公園所在地に会芳楼を開いた。会芳楼は劇場と料亭を兼ねた娯楽場であった。その頃の居留地では劇場は珍しかったので、中国人だけでなく、西洋人や日本人も利用する施設となった。中国からの名優を招いての演劇や、西洋人のアマチュア劇、日本人の綱渡りなどの曲芸が披露された。図1の引札は、中国芝居「三国分争、六朝戦闘」などが上演されると宣伝している。当時の浮世絵(図2)にも会芳楼の概観が描かれている。また1875年(明治8)3月5日号の『横浜毎日新聞』に掲載された会芳楼の広告によれば、館内には中国明朝以来の書画・骨董や盆栽が陳列され、庭園には「香草奇樹」が植えられ、訪れる人々の目を楽しませたという。人々が集う会芳楼は中華街の核の一つとして、街に活気をもたらした存在であった。会芳楼はその後、経営者の交替などが影響して明治10年頃には姿を消した。それから120年あまりが過ぎた昨年、山下町公園改修の一環として、公園内に中国風の東屋が設けられ、「会芳亭」と名づけられた。「会芳楼」の記憶がふたたび中華街に甦った。

中国の領事館の所在地
 明治16年(1883)8月、会芳楼の跡地に、清国領事館の新館が落成した。それまで居留地一四五番地にあった領事館が移転してきたのである。横浜の清国領事館の開設は、日清修好条規締結7年後の1878年2月3日のことである。初代領事は范錫朋(はんしゃくほう)、135番地に移転した際の領事は、二代目領事の陳允頤(ちんいんい)である。横浜の清国領事は、横浜に暮らす中国人だけでなく、築地居留地、函館居留地に暮らす中国人も管轄した。なお1897年7月から総領事館となった。
 その後、1911年の辛亥革命で清朝中国は倒れ、中華民国が生まれる。辛亥革命の指導者孫文は、日本亡命中に横浜に滞在しており、横浜華僑は革命の成功に貢献した。本国の政権交替により、横浜の清国総領事館も中華民国総領事館となるが、関東大震災で明治時代の領事館の建物は倒壊した。
図2・錦絵に描かれた会芳楼
(神奈川県立歴史博物館蔵)

総領事館から公園へ
 震災直後、総領事館は一時期、西戸部や141番地に移転するが、1925年には再び山下町135番地に戻り、確認される限りでは、1932年までは同地に所在した(『横浜復興誌』第四編、昭和7年3月)。なお、震災復興事業の一環として、旧居留地の永代借地権の買収が進められたが、当該地は中華民国政府の公用地であったためか、買収はされていない。
 1933年以降は中華民国総領事館は山下町153番地、87番地、202番地などを転々とする。これには日中戦争にともなう中華民国南京政府の外交団の引き上げと、日本の傀儡政権である北京臨時政府、王精衛国民政府の外交団の着任といった問題と関係する。1937年7月、日中戦争が勃発し、日本が北京臨時政府を樹立する。横浜中華街でも南京の中華民国政府を支持するか、北京臨時政府を支持するかで揺れ動くが、地元華僑は「日華融和」を選択し、中華民国政府の総領事館は1938年2月6日に閉鎖となる。その後1938年4月5日、山下町202番地の親仁会事務所に、中華民国臨時政府(北京臨時政府)駐横浜弁事所が開かれ(『横浜貿易新報』昭和14年4月6日)、1940年9月1日、同所に王精衛国民政府の領事館が開かれたのである。

公園に隣接する華僑婦女快感が2001年春、新築落成。会館にある託児所「小紅」の子どもたちは元気いっぱい
(撮影・商家訓)
新しい公園で国慶節を祝う獅子舞2000年秋(撮影・黎啓榕)

 領事館移転以後の135番地の用途は定かでないが、後述するように1958年に中華民国政府が当該地の不動産登記を行なっていることから、当該地の借地権・所有権は中華民国政府が保持していたと考えられる。なお、1942年4月1日、永代借地制度が撤廃され、当該地の永代借地権は土地所有権に転換される。
駐横浜清国領事館(「日本写真貼」1910年より)
 1945年5月の横浜大空襲により、この場所を含む中華街一帯が焼失したこともあり、戦後まもなくの状況は不明である。その後1958年(昭和33)3月6日、中華民国政府によって135番地ノ1の不動産登記がなされる。そして、同年3月31日、他の市有地との交換によって横浜市に所有権が移転される。したがって、不動産登記はこの横浜市への所有権の移転の必要から行われたと考えられる。そして、横浜市緑政局公園部の「都市公園台帳」によれば、昭和34年の児童公園整備事業として諸施設が整備され、翌年4月1日、児童公園として山下町公園が開園された。

伊藤泉美(横浜開港資料館調査研究員)

「開港のひろば」(第69号、横浜開港資料館編・刊)より転載。一部割愛しました。

《追憶の横浜ー絵葉書に見る100年前の人びとと風景ー》開催中
(4月22日(日)まで)横浜開港資料館045-201-2100(大桟橋入口))



目次ページへ戻る


【oisii-netホームページ】

PERI