中国現代絵画の20年
石 魯(1919〜1982)

川浦みさき(画家)

<秋収>『当代名家中国画全集・石魯』
 5月の北京は美しい。黄砂の去った空には楊樹の白い綿がふわふわと舞う。「柳絮(りゅうじょ)」だ。今年、その5月に展覧会開催のために北京を再訪することができた。中央美術学院卒業以来、ただ経由地として通過するだけだったので、14年振りの北京であった。
 王府井は歩行者天国になった、東風市場がなくなった、等々の話は聞いていたのだが、変化の大きさは想像を超えていた。街の横道・校尉胡同にあった母校の校舎は移転し、今は一部の宿舎と美術館のみがそこに残されていた。記憶の中の四合院の灰色の壁と屋根瓦の景色があまりに鮮明なので、家が消えて拡張された道にバスが走っているのが現実とは思えなかった。美術館の個展会場で恩師の先生方にお会いした時、ようやく「帰ってきた」と実感でき、10数年の時間がつながった気がした。
 会場には学生達も多く、興味深げに作品を見てくれた。彼らのものごしは柔らかで、留学当時に出会った学生達に比べ、ずいぶんおちついた印象を受けた。
 振り返ると81年の「同学」達は、情報に飢えていて、貪欲だった。私が日本から持参した画集や雑誌を食い入るように見、日本の美術の現状を知りたがり私を質問責めにした。開いたばかりの中国の窓は、まだ全てに対して開かれてはいなかった。しかも、印象派も表現主義も抽象もポップも一挙に入りこんできたため、やや混乱していただろう。しかし、彼らは決して西洋のモダンアートを崇拝していたのではない。多くの学生達が一番興味を持っていたのは、むしろ、中国の土着の文化だった。学生は農村へ行き、農家に泊まり、農民をスケッチした。また民間美術の年画、刺繍、剪紙を学び、時には大学に農民を呼び剪紙の実演をしてもらったりもした。外来の芸術に興味津々でありながら、何より自分のルーツ、中国文化の根を探ろうとしていたのだと思う。そんな彼らが最も敬愛していた画家が、石魯であった。
 82年のある日、中庭の掲示板に人だかりがあった。何だろう、と近づくと「石魯が亡くなった」と教えてくれた。学生も老師も沈痛な表情で、そのニュースがどれほどの打撃であったかがすぐに感じ取れた。
 石魯は、西北黄土高原を描き続けた画家である。粗削りな画風と題材から、文革中に「野・粗・乱・黒」と批判され、「改革」を強要された。しかし彼は拒否し、ついには発狂してしまう。そのため死刑を免れ、入院と治療の中で絵を描き続けた。初めて間近で彼の作品を見た時、筆の激しさ、墨の重さに圧倒された。がさがさに重ねられた墨の質感は、乾いた大地そのものだった。そこには、中国の文化を育んだ黄河と黄色い大地があった。中国の根源は何か、という問いは、日本の風土に育った私にはあまりにも重い。しかし、石魯の絵は、その一つの答えをあざやかに私の前に示してくれている。

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