陸佐光さん

 横浜中華街は、中華料理店が密集し年間1800万人の人が訪れる「世界一の中華料理の街」である。この街では上海料理・北京料理より、圧倒的に広東料理の店が多い。その中でも《大珍楼》の名は高い。中華街善隣門手前に創業以来五四年の大珍楼本店、大通りに新館、横道に四年前開店した別館。小田原店は昨年開店したばかり。
 《大珍楼》社長・陸佐光(りくさこう)さん、1947年生まれ54歳。
 これからの店の姿を尋ねると、明確な答えがすぐに返ってきた。「本店は由緒ある店にふさわしいものにしたい。いずれ大きな水槽を置いて新鮮な魚介類をお客様のご希望で調理する、これがやりたいですね。新館は香港スタイルの〔ワゴン飲茶〕をもっと充実させる。別館は名前が《●●好》、これはなべ料理の温かい店ですよ、という意味で、中国の田舎料理の店です。ここのコックさんは全員中国人、中華街のチーフやオーナーが店の閉店後に寄れるところを目指してます。」
 〔ゆうパックふるさと便・大珍楼〕の通販は10年を迎えた。バイキング・ワゴン飲茶を先駆的に提供し、あるいは旬の食材を楽しむ「大珍楼グルメの会」を年420人規模で開催するなど、お客様にはうれしい試みを次々と打ち出す。「これからも私のコンセプトを強く出していきたいですね。」今、充実の時。
 陸佐光さんは華僑二世。父の陸蘇珍さんは広東省高明県出身で、戦前同郷のよしみをたどって仲間とともに来日した。幕末から戦前、いや21世紀の今日まで、華僑にとって同郷のつながりはあつい。
 蘇珍さんはここ横浜で同じ高明県出身の夏菊蘭さんと知り合い家庭を持ち、《大珍楼》を始めた。
 「母には、雨が降ると『風邪を引くから学校行かなくていいよ』と言われました。」佐光さんは母41歳の子、一人っ子である。小学6年生のときに父が亡くなった。「店を継いでほしいという母に反発しよくけんかした」佐光さんは高卒後、伍貴培という名のあるチーフのいるホテルオークラに修業に出される。大ホテルの中華料理は四川料理・上海料理という時代、ここは広東料理を取り入れた初めてのホテルであった。時は東京オリンピック直後。「休み時間を削って彫り物の練習をしたし、板からなべから経験させてもらい自分でも努力して、人が10年でやることを4年で一通りやりました。」
 佐光さんはこの修業時代の一九歳の時に同い年の周小鈴さんと結婚、20歳の成人式の日に長男が誕生している。この結婚は、母親同士が親しく「本人たちが子どものときに話をつけていた」と笑いながら語る。18歳の時スキー場で初めて顔を合わせ、ある日突然婚約式、宴席の用意がすべてできていてそこに座ればよいだけになっていた。結婚式は中華街の《同発新館》、ここは当時横浜華僑御用達の結婚式場でお客様は2回に分けて七百人を招待した! 華僑の結婚式はこうしたものだったそうである。
 修業を終え、《大珍楼》に帰る。「こんな料理じゃだめだ。まず建物を建て替えなくては。」と母を説得し、木造2階建てを今のビルに建て替えたのが24歳のとき。そのころ中華街でエレベーターが付いていた店は《陽華楼》とここだけだったと言う。以来、社長。

30歳のころ、お母様と
 20年前お母様が亡くなる。「すごいショックだったよ。1年くらいは仕事も手につかなかったね。一本柱がなくなった感じだった。」「母は女傑といわれた人。人の面倒見がよくて、中華街では『二大姨(二番目のおばさん)』で通っていたね。口は悪いけれど、やることは親身になってやって感謝されていたなぁ。」お客様につたない日本語で「ありがとう!」と言っていた、年をとっても店に座っていた、と母の思い出を大切に語る。
 女丈夫のお母様と職人肌の陸社長と働き者のママ(陸さんは奥様のことをこう呼ぶ)が店を育てた。
 陸佐光さんの半生、《大珍楼》の歴史に、横浜華僑の歴史が重なる。
   (インタビュー 新倉洋子)




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