謝種さん

 横浜中華街《謝甜記(しゃてんき)》といえば「中華のお粥」で全国ブランドの店。貝柱粥・牛肚(モツ)粥・鮮蝦(エビ)粥…、30席ほどの小さな店に行列ができる。
 《謝甜記》のおばあちゃん――謝種(しゃたね)さん、1914年生まれ88歳。
 昨年腰をいためるまで現役で店に立っていた。「長い間大きなお粥のなべを腕とおなかで持ってやっていたからね、腰をいためたのね。」種さんは優しいお顔の小柄な方。「今はお粥の火加減を見たり、息子たちのやり方に口を挟むくらいだけど、若い人は聞かないねぇ、時代が違うよと言われる。」とおっしゃるが、いえいえ、みな種さんの大きな存在を認めていますヨ。
 ご主人の甜さんは故郷広東省高明市にりっぱな集会所を寄贈して、7年前に亡くなった。広州へ出て料理を覚え、同郷のつてをたどって横浜に来たのが17歳のころ。以来《崎陽軒》や進駐軍、中華街の《安楽園》で働き51年に「謝甜の店」という意味の《謝甜記》を開店した。「バラック建てでね、初めはお粥とシューマイだけ。豆のお粥は仕込みが大変だった。横浜港へ入ってきた船の労働者が朝食べに来るから、2時に起きて仕込んで6時には店を開けていたの。」50年ほど前のこのあたり、中華料理屋は数軒しかなくてバーがたくさんあり、ひげ面の大きなロシア人がラシャを背負って売り歩いていた、と記憶は鮮明。「お父さんは『店は小さくていい、味のよいことを広げたい』ってよく言ってたね。」
 55年ころ、宝塚歌劇団の菊田一夫が『虞美人草』の振り付けを甜さんに聞きにきたり、大仏次郎が訪ねてきたりして後、店に日本の客が来るようになり、獅子文六、渡辺はま子が出入りして口コミでお客が増え、その注文に応じてお粥以外のメニューも増えていった。
 「子どもが小さいころ、おんぶしてお粥を作り、きょう仕込んだものが売れるとそのお金で次の日の材料を買いに行った。そのころが苦労だったね。」お粥が売り切れると甜さんは中華菓子を作り、それを種さんが街の集会所に売りに行く。「値段を広東語で教わって覚えて行くんだけど、恥ずかしかった。」
 種さんは銀座の歌舞伎座近くで生まれ育った。紹介する人がいて7歳年上の甜さんと51年に結婚したとき、そこには母を亡くしたばかりの7歳と5歳と3歳の女の子がいた。日本女性は結婚することで中国籍になる時代であった。「苦労するだけだってみんなに反対されたよ。でも3歳の子が私のひざから下りないの、かわいそうでね。」「お父さんは私の子育ての苦労を理解してくれる優しい人。」「私が子どもに小言を言っていると、お父さんはそれが嫌で、涙をためて外へ行ってしまうような人だった。」

 種さんが「血は争えないものだねえ。」と言うのは、あの獅子舞、どらや太鼓で舞う中国の獅子舞である。「獅子が青菜を見つけて、周りをうかがってそれから食べる姿やなんかを息子に、こうするんだああするんだ、って教えていた。その息子がまた孫に同じように教えているの。」
 甜さんは演劇が好きで、青年会で獅子を舞う第一人者であった。関帝誕や港祭りで踊る雄姿が写真に残っている。晩年、車椅子に乗るようになっても、どらや太鼓の音が聞こえてくると「行こうよ」。 「獅子舞ならこの人」といわれた長男の成発さん、今中華学校で子どもに踊りを伝授する。孫の明華さんはバリバリの現役、国慶節や春節の舞台に上りお祝い事に駆けつける。ひ孫の良華くんは幼稚園で子どもの獅子をかぶり、かわい〜いその姿に拍手を受ける。「息子はお父さんに『親父の太鼓が一番合う』って言ってたね、そしていま孫が踊る時は息子が太鼓をたたくんです。」衣装を縫うのに苦労した、と思い出話をしながら、種さんはだんだん元気になる。
 「子どもたちは育てるのに苦労したけど今はよくしてくれる。最高に楽しい。」孫9人、ひ孫8人に囲まれた穏やかな日々がここにある。 
(インタビュー 新倉洋子)




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