世界の街角で
プーアル茶の新しい道
易武にて、圓茶を陰干し
文・写真/田島知清(民族学研究者)


「村の天才」
 中国雲南省の南端に「プーアル古六大茶山」という地域がある。その中心、いま易武老街(イーウ・ラオガイ)といわれているところに、昔は茶問屋が関帝廟の門前に軒を並べていた。ここで作られた《七子圓茶》は半世紀前、香港や東南アジアに盛んに輸出されていた。「易武正山」、プーアル茶の本家本元の《元宝(ユェンバオ)茶》である。
 世紀の変わり目の2000年秋、それまで沈滞していた村に、伝統を再興し固形茶を作ろうとする人がようやく現れた。彼の経歴がまたおもしろい。改革開放のあとこの村がどうしてきたか、彼は村の歴史を体現している人物だ。雲南北部の大工さんだった彼は、文化大革命の期間中に村にやってきて居ついてしまった。なんでもこなせる腕のよさが買われたのだ。改革開放のあと村は紅茶と緑茶(どちらも散茶)を作ることにした。思いきった新方針を打ち出したのである。背丈の低い新品種、うね仕立ての茶畑が導入され、集落は道沿いに移された。同時に、辺鄙な所にあるかな

山中での茶摘み
りの面積の茶畑が最終的に放棄された。大工さんとして製茶工場の建設を請け負っていた彼は、なんと技術部長に選ばれた。これには本人もいささか驚いた。ところが残念。工場でのお茶づくりはうまく立ちあがらなかった。紅茶は輸出ねらいだったが、東欧の社会主義国家が崩壊してしまった。計画を縮小して緑茶だけをほそぼそと生産することになったのである。彼にも責任はある。しかしそこからがんばったのが彼の偉いところだ。運送業で資金を蓄えた彼は、茶畑の真ん中に進出して小さな製茶工場を建てた。れっきとした「郷鎮企業」のオーナーだ。いまや表彰ものの人物なのである。「お茶とかかわりができてから、ろくなことがねえ。」彼はそうぐちるが、もし過去の名声を生かして固形茶をねらうとしたらまず彼だろう、私はそうにらんでいた。ボサボサの頭、ひげ面、私がつけたあだ名は、「村の天才」である。なかなか本心はあかさない。その彼がいよいよ固形茶づくりに乗り出したのだった。
 それに続いたのが、わが老李(老人という意味ではなく親しくしている李さんという意味)だ。こちらは地元出身。『豆彩19号』にすでに写真で登場している。夫婦そろって茶農家

茶の選別をする
の出身だ。90年代に入って、40歳過ぎた彼は勤め人生活に見切りをつけた。山地を開墾してトウモロコシで資金を作り、旅館兼食堂を開いた。建前は自分でやり、妻に経営を任せた。ここまでは山村で起業資金を作り出す常套手段、蓄財の正攻法である。01年秋50歳の峠を越えた彼は私にこう宣言した。「旅館兼食堂の経営は娘夫婦に譲って、私は《元宝茶》の製作に専念するつもりです。」さっそく茶農家から、昔の製法のままの日干し緑茶を買いつけ試作に乗り出した。《元宝茶》は表面の美しさが大事だ。小ぶりの黒っぽい葉を使い、その上に白い芽が点々とまぶしてある。この黒白の対比が《元宝茶》の美学である。「見てください。うちのが一番美しいと思います。自信が出てきましたよ。」円盤のような

7枚を重ねて包む
《圓茶》だけでなく、花びら型の固形茶も試作している。やる気十分だ。現地に乗り込んできて固形茶を作ろうとしている台湾人を含め、今4か所で試作、生産が行われている。村にも活気が出てきた。11月になっても茶摘みをしている。かたや雲南の道路事情も日増しに改善されてくる。省都昆明からシプソンパンナへの高速道路は04年開通を目指している。辺地開発はまず道路からだ。中国はWTOに加盟した。都市はいいかもしれない。しかしもっとも打撃を受けるのは、生産性の低い農業だといわれている。そのなかで後れたへき地でようやく村起こしが始まろうとしている。


豆彩19号に「プーアル茶のふるさとは今…」
豆彩22号に「プーアル茶あれこれ」

(ともに田島知清)を掲載しています。


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