雪本博美さん

 横浜中華街の市場(いちば)通り。百メートル余りの狭い道に中国料理・青果・食料品の店が並ぶ。つい先ごろまで魚屋・肉屋・酒屋・食器、日本そばにすしの店もあったここは、この街の台所。
 この通り中程にある中国料理店《鯉鰻(りーまん)菜館》、その前身は昭和の初めから川魚を扱う雪本川魚店。雪本博美(ゆきもとひろみ)さんは1932年生まれ70歳、戦前からここに住む。
 「横浜はぼくで3代目。」
 おじいさんの岩太郎さんは1886年大阪生まれ。造船技師であったがそれがいやでハバロフスク・旧満州をまわった。「そのあと台湾でバナナを見つけ、大正の初めに横浜に室をこさえて青いバナナの輸入を始めた。」ところが23年関東大震災発生、雪本家は倒産し一家は北海道に渡る。岩太郎氏は27年ころには横浜へ戻り、ライギョやフナを商い始める。函館に残った岩太郎さんの長男・巖さんは函館大火ののち40年に家族を連れて横浜へ戻る。巖さんの次男である博美さんは8歳であった。
 「戦前は市場通りの東側は空き地で、毎日5時6時から朝市が立って、本牧や保土ヶ谷から魚や野菜が運ばれた。うちも初めは市に毎日通っているうちにここに住み始めたのかもしれないね。」
 雪本少年は山下町の横浜小学校へ通う。名門といわれたこの学校はスロープのある鉄筋コンクリート造りの校舎、鎌倉や東京からも生徒が通ってきたという。この学年は男生徒の赤・黄組、男女の紫組、女生徒の青・白組の5クラス、1クラス40人。雪本さんは45年3月卒業の、この学校最後の卒業生となった。「箱根湯本の福住旅館に集団疎開した世代」である。この学校は戦後の学制改革で横浜市立港中学校になった。そう、中華街西の牌楼・延平門そばの学校である。当時山下町・中華街には関帝廟に接して横浜中華公立学校があり、中国人の子弟はこちらに通った。「クラスにも1人2人の中国人がいたし、街のなかで中国人日本人だからってけんかすることはなかった。路地で遊んだり、海でいっしょに泳いだりしたよ。」「防空壕の中では日本人も中国人も朝

54年正月・雪本博美さん21歳(向かって左)と友人
鮮人もいっしょ。」
 川魚を扱う雪本川魚店に戦後4、5年のあいだ海の魚が並んだ。「明治丸や昭和丸という船が富津の米や海魚を前田橋に直接揚げたし、漁船も船を横付けしたね。マグロも揚がり料亭向けにいい商売したよハハ…」でも海の魚は統制を受け取り締りが厳しい、川魚は統制がないので戻った、と語る。川魚―コイ・ライギョ・レンギョ・ソウギョ・フナ、これらの魚は千葉の我孫子や柏から電車で運んできた。ウナギ、これは中華街すぐそばの新山下の海で仕掛けを沈めると採れた!ウナギはもちろん蒲焼に。「3時4時に起きてくしを刺すんだけど、朝から人が並び、戦前は大通りの角まで並んでいることも多かった。」ウナギの数に限りがあるので、断るのに苦労したそうだ。
 戦後すぐのころ、中華街に中国料理屋は10軒くらい、多くはなかったが、「宴会はコイだったね、コイのから揚げ。1日50から百匹、腹出して店へ納めるんだけど、税務署が料理店の売上を調べるのにコイの仕入れを調べる時代もあったんですよ。」
 88年、雪本川魚店は2階に鯉鰻菜館を開業する。料理店に貸すつもりが、息子の博明さんが積極的で開業に至る。店名は「コイ屋とかウナギ屋とか呼ばれていたから、それを生かそうと思って」決めた。しばらくは兼業していたが、6年前に魚店はのれんをおろす。鯉鰻菜館のおすすめは海鮮中国料理、素材には絶対の自信がある。
 若いときから、父譲りの写真が趣味。最近は店で使う料理写真を撮ることが多かったが、今年は中華街の行事を写そうと決めている。新しい趣味は水彩画。「旅先で景色を描きたくて始めたんです。いま描いているのは枯れたヒマワリ、日々枯れていくのがおもしろい。」そのしなやかな好奇心に、接する人も心楽しくなる。
(インタビュー 新倉洋子)




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