サンフランシスコ・チャイナタウンの坂道

世界の街角で

サンフランシスコの

チャイナタウンを歩く(1)

文・写真/伊藤泉美(横浜開港資料館調査研究員)
 
  ほんとうは「中華街史跡ツアー」に参加したかったのです。サンフランシスコの中国文化センターが主催し、毎日2時から中華街の史跡を歩いてまわるツアーです。ホーム・ページに「ツアー参加希望者は前日までに電話にて予約」とあったので、ロサンゼルスに着いたら電話をすればいいと、暢気に構えていました。ところが、前日は月曜日で中国文化センターはお休み、予約は失敗しました。

 華僑の歴史を研究している私としては、それでもあきらめられずに、中華街のホリディインの3階にある中国文化センターに向かい、あれこれごねた結果、「中華街見所マップ」を入手。これはなかなか結構なマップでした。史跡もふくめて中華街の見所58か所が地番入りで解説されています。「これさえあれば、なんとかなる!」ガイドさんの案内でラクしようとした目論見は崩れ、自力で史跡を探し歩くことになりました

 マップを手にし、まずは一番遠いところからということで、ブロードウエイ通りのアメリカ華人歴史学会をめざしました。ここは博物館でもあり、最初に行くにはふさわしいところ。が、出鼻をくじかれました。引越していたのです。しかたなく、次はチャイニーズ・ホスピタル、病院をめざそうと歩きだしました。


遠くにゴールデンゲートブリッジが見える

 よく観光ガイドに写真が載っている中国風の門から入る通りはグラント通り(都板街)です。ここには観光客相手の土産店やレストランが建ち並んでいます。サンフランシスコは吹きぬける風が心地良い坂の街で、アメリカ映画の車が急坂を飛び出してくるカー・チェイスの場面がぴったりの町並み。中華街もサクラメント、クレイ、ワシントン、ジャクソン、パシフィック、ブロードウェイの急坂の通りと、それに平行するグラント通りなどからなります。アメリカ華人歴史学会を見つけられずに、とぼとぼ歩きはじめたのがパウエル通り、グラント通りから2本上の通りです。ここは地元の買い物客であふれていました。店頭に野菜を山積みしたマーケットに入っていくと、豚の足や内臓がならんでいます。干椎茸やナマコもあります。魚は冷凍ものの切り身が多く、新鮮ではなさそう。

とある店先にライチの山が2つありました。台湾産のライチと大陸産のライチ。2人のご婦人が真剣なまなざしでライチを1粒1粒品定めしています。これはおいしいのではないか?と思った私は2人の後ろに並んでみました。遠慮がちに待つこと7、8分。2人のご婦人はいっこうに品定めをやめる様子がありません。時間に限りのある旅行者の悲しさ、とりあえずその場は立ち去りました。パウエル通りを歩いていると、香港の食料品街、西営盤の辺りにいるような錯覚に陥りました。そうか、ここは広東人の街なんだ。

 人は食べもすれば、病気にもなります。そこでめざしたのは病院、Chinese Hospitalです。ジャクソン通り沿いの病院には、「東華医院」の看板がかかっていました。やっぱりそうか。東華医院というのは、香港に本拠を置く伝統ある慈善団体で、主に病院と墓地を経営し、全世界の広東人社会の中で重要な位置をしめる団体です。華僑は外国で働いてお金をため、故郷に帰ることを願っていました。生前にその願いが叶えられなければ、亡くなった後に亡骸を本国に送りかえしていました。横浜でも大正の頃まではそうでした。この風習を帰葬と呼びますが、広東人社会で帰葬の中心にあったのが東華医院です。世界各地の広東人の亡骸は香港の東華義荘に集められ、そこから広東各地に送られていったのです。外国での暮らしが何世代にもおよぶと、その地が華僑のふるさととなり、帰葬の習慣もなくなっていきました。(続く)


東華医院

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