李行簡
(1937〜 )


川浦みさき(画家)
忘れられない映像がある。天安門広場の夜空に浮かび上がる白い女神像、戦車の隊列が押し寄せ、やがて、女神像が崩れていく。それは、1989年6月4日のニュース映像、私が中央美術学院の留学を終え、帰国して間もない時だった。情報が知りたくて、何度も大学に電話をかけ、留学生の寮への電話がつながったのは、いつだったろうか。うろたえている私に、日本人留学生がていねいに説明をしてくれた。「あの像を作ったのは大学の彫刻科の生徒たちで、大勢の学生たちがデモに参加していた。だが、老師たちが広場に行き、学生を必死になって説得し、寮へと連れ戻した。大学には逮捕者も死者も出ていない。」私は少し安堵して電話を切った。同級生の顔とお世話になった老師のことを思いながら。


〈春之声〉『李行簡画集』

  忘れ難い多くの人々に、中国で出会えた。お教えいただいた老師のなかで、私が最も敬愛する恩師は、李行簡老師である。二度の長期の写生旅行、黄山と貴州黄果樹の旅に同行してくださったのは、李老師だった。名山・奇峰を巡りながら、老師が見つめ描き続けていたのは、家・家族、そこに生きる人々の暮らしだった。貴州では、布依族・苗族等の少数民族の集落も訪ねた。村人が集まってくると、老師は筆を動かしながらも、必ず話しかけた。畑では何を作っているか、収穫はどうか、子どもは学校に行っているか、どんな祭りがあるか等々。話が弾むと家に入れてもらい、台所の道具や農具の説明もしてもらった。
  写生をしている私に、老師はこう注意してくださった。「詩意を忘れないように、作文章(画面に物語を作ること)を忘れないように。」中国画は再現を目的としない。そして蘇東坡が言う通り「画は無声の詩、詩は無形の画」である。だが美辞麗句で飾った言葉が詩ではない。ふつうに流れていく日常の日々、詩意はその中からも生まれてくるのだろう。  李老師との写生旅行から16年が過ぎた。水墨画を描き始めてから、私は一人で写生旅行に出るようになった。インド・ネパール・パキスタン・カンボジア・インドネシア・ベトナム等の国を訪れ、今、 当たり前の家族の情景がどれほど貴重であるかと、実感できるようになった。
  留学中に私が直接教えていただいた老師の多くはもう退
職され、大学にはいない。現在教壇には、かつての私の同級生たち、40歳前後のまだ若い老師たちが立っている。彼らが担う次の10年、20年後の中国画の展開を、私はとても楽しみにしている。なぜなら、私は彼らをよく知っているから。中国の伝統に誇りを持ちながら、出会ったばかりのモダンアートと向き合っていた学生だったころの彼らを。そして、一瞬であっても、あの日の天安門広場に、「自由」という名の女神像をたてることのできた彼らを。

【戻る】


【PERINETホームページ】【PERINET企画サイト】


webmaster
Copyright(C)2002 PERI