KAI 1

  「私が8歳のころ、中華街の表通りに面したところは家が建っていたけどその裏は原っぱ、山下町の4割は空き地だったね。」23年の関東大震災から5年たったころの話である。歴史資料によると、古いれんが造りの建物が密集したこの山下町・中華街は、震災による倒壊と火災で華僑の犠牲者1千7百人余、神戸に避難した人が約4千人といわれる。横浜開港後この地域に住み始めた中国人は、20世紀初頭には人口5〜6千人、これが震災後の24年1月には4百人余に激減した(『横浜中華街―開港から震災まで』)。
 
 「震災で崩れたれんがは崩れたまま脇へどけてあった。整地されたのはやっと35年ころで、土地を区切って入札して、れんがを片付けさせたんです。なぜ入札かというと、震災で埋まった金銀財宝を掘り出す権利を与えるわけ。両替商があった場所は高く入札されたんですよ。片付けたれんがは1つ3、4銭で売っていた。」

  震災後の中華街の様子を語るのは中地清(なかちきよし)さん、20年生まれ82歳。戦前の横浜山下町、中華街が記憶にある。


中地 清さん

  中地さんは4歳のとき、両親に連れられて京都から震災直後の横浜へ来た。「両親は京都で友禅染の染屋をしていて、一旗挙げようと横浜へ来たらしい。当時の横浜はそうやって全国から働きに来た人が多かったらしいね。」港町・横浜には新しい希望が満ちていた。 

 横浜に来た両親は港の港湾労働者にスルメを売る。北海道から取り寄せてそれを東京まで歩いて取りに行った、と父に聞いた。そして大福。「震災で焼けた電信柱に一斗だるを乗せてうすにして、もちをついた。」次に手がけたのはパン。清さんの父親は港のフランス船に行ってコックからパン焼きを学んだ。「元町にあるウチキパンの打木さんと同じころ学んだらしい。」近所の銅壺屋にそれまでと違う角型のパン型を作らせ、震災後崩れたまま放ってあったその辺のれんがを集めてパン焼きがまを作った。「イースト菌はジャガイモを使ったので、ふくらまなくてよく失敗した。」朝5時から9時10時ころまでの商売。「1斤の食パンを半分にしてバターかジャミを塗って5銭、マグカップくらいのコーヒーも5銭、これはミルクを好きなだけ入れていいの、置いてあったのがアメリカのカネションミルク。」今の関帝廟通り中ほどに構えた店は大繁盛し、人を10人くらい使っていたそうである。


中地家のみなさん
(1940年撮影)

  「中華街では朝、職人や労働者に5個10銭くらいのヤウチャッカ(揚げパン)とか3個5銭のソウピンを中国人が売り歩いていて、おかゆもあった。季節にはチマキも売っていましたよ。」港湾労働者は山下町の隣の松影町や山元町あたりに住んで港の仕事にやってきていたようだ、と記憶を手繰る。「船のペンキ塗りをするのは広東の人。中国人の親方について日本人もその仕事をしていた。福建の人は港湾労務。上海の人は床屋か背広の仕立てをしていた。仕立て屋は中国から小僧さんをたくさん連れてきていて、客は東京の政治家とか大社長たちでした。」  「順調な生活が続く…」と思いきやお父さまはいろいろな商売に手を出して失敗、33年に亡くなる。母はすでに亡く、13歳の清少年と姉・弟が残された。

  「そのころは昭和恐慌の時代。ルンペンて言葉がはやって、横浜にもバタ屋がたくさんいた。」ルンペンは今のホームレスか? バタ屋は廃品を拾い集める人のこと。横浜の在、小机に古紙を仕入れる人がいたので、清少年は古紙集めに精を出す。そして5年後、18歳にして山下町小公園に近い186番地に家を建て《中地商店》の看板を掲げた。県や横浜市の役所の古紙を扱うようにもなった。

  手元に残る貴重な戦前の写真(40年正月撮影)には、はれやかな表情の20歳前の清さん(中央)、姉、姉のご主人、そしてまだ幼さの残る弟さんが写っている。 次回【懐 KAI 2】に続く

(インタビュー 新倉洋子)

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