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そう、横浜中華街に現在2百軒ほどある中国料理店は、そのほとんどが戦後、特に、中国料理が日本人に身近になった70〜80年代に多くが開店したもの。 いまは廃れてしまった仕事がこの時代、この町にあった。「箱屋」は船荷を詰める木箱を作る家。「市場通りなどに5、6軒あったかなぁ。」《東信ジャパン》は製氷業で、船に納める氷を作った。船舶用寝具を作る所もあった。市場通りの西側は長屋で、外国船から荷揚げされたものが売られていた。昔、横浜にはアメリカの商社は少なくてフランス・イタリア・ドイツ・イギリスの会社が多かった、と中地さんは振り返る。「中華街の大通りに《ライジングサン》の大きなクラブがありましたよ。」《ライジングサン》はイギリスの石油会社で、アメリカからは《スタンダード石油》が横浜に進出していた。 当時《ヘルム》は、はしけ業務の大手、馬車場が中華街の端にあった。「中国の貿易商では《徳和》が大きかった。海産物の輸出入をしていたよ。」日本産干しあわびなどを扱っていたのであろうか。 英・仏のウイスキー会社、イタリアの食料品会社《コードリエー》があり、《シンガーミシン》の会社は横浜球場の近くにあった。使い古したストッキングを輸入している会社もあったそうな!?生糸そしてセルロイドやブリキのおもちゃが横浜からアメリカへ輸出されていたことを覚えている人は、もう多くない。 |
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横浜中華街関帝廟の前の骨董店《アンティークガレージ》は、中地清さんの長男、隆さんが経営する店。時を封じ込めた骨董の奥に、ドイツ・マイセン窯の古雅な陶人形が並ぶ。「このマイセンは息子が集めたものですが、この店自体は、その昔私が資料館を開こうかと集めた古い物をもとにして息子が始めたものなんですよ。」清さんは愛しそうに見回す。古きよき物を探し愛でる心と眼が、伝えられた。 |
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(インタビュー 新倉洋子) |
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