KAI 2

  関東大震災直後の横浜に両親に連れられてやって来た中地清さんは以来80年間、ここ山下町・中華街の歴史を見つめてきた。

  昭和初めの戦前期、中華街の生活は―。

  「この町の広東の人は年3回くらい広東語の芝居をして、獅子舞もした。龍舞をするのは福建の人だった。子どものころ見に行ったよ。」いま蘇州小路と呼ぶ通りには《和親劇場》があって、日本や中国の芝居を上演したそうである。「中国の人は竹で金魚の形を作って絹を張り、中に火を灯して飾った。」それは旧暦1月15日の元宵節(灯籠節)のお祭りですネ!
 
  街並みは、中国料理店が表通りに並ぶ現在の横浜中華街とは異なっていた。「あのころ山下町に中華料理店はそんなになかった。《聘珍楼》《金陵》《永楽軒》《安楽園》…かな、《華勝楼》はあのころ小さかった。《一楽》はラーメンにチャーシュー・タケノコがたくさん乗っていて、それを酒のさかなにして客が五加皮酒を飲んでいた。いま善隣門がある横あたりにあった《平安楼》は大きくてね、建物は日本風の2階建て、沼田という日本人が経営していた。」町には南京米だけ扱う米屋や、ぶた屋(肉屋のこと)の《武田屋》《江戸清》、鳥屋の《榊原》など、中国料理店専門に食材を入れる店がいくつもあった、と語る。


中地 清さん


  そう、横浜中華街に現在2百軒ほどある中国料理店は、そのほとんどが戦後、特に、中国料理が日本人に身近になった70〜80年代に多くが開店したもの。

  いまは廃れてしまった仕事がこの時代、この町にあった。「箱屋」は船荷を詰める木箱を作る家。「市場通りなどに5、6軒あったかなぁ。」《東信ジャパン》は製氷業で、船に納める氷を作った。船舶用寝具を作る所もあった。市場通りの西側は長屋で、外国船から荷揚げされたものが売られていた。昔、横浜にはアメリカの商社は少なくてフランス・イタリア・ドイツ・イギリスの会社が多かった、と中地さんは振り返る。「中華街の大通りに《ライジングサン》の大きなクラブがありましたよ。」《ライジングサン》はイギリスの石油会社で、アメリカからは《スタンダード石油》が横浜に進出していた。 

 当時《ヘルム》は、はしけ業務の大手、馬車場が中華街の端にあった。「中国の貿易商では《徳和》が大きかった。海産物の輸出入をしていたよ。」日本産干しあわびなどを扱っていたのであろうか。
 英・仏のウイスキー会社、イタリアの食料品会社《コードリエー》があり、《シンガーミシン》の会社は横浜球場の近くにあった。使い古したストッキングを輸入している会社もあったそうな!?生糸そしてセルロイドやブリキのおもちゃが横浜からアメリカへ輸出されていたことを覚えている人は、もう多くない。



●40年、中地清さんの出征を
見送る家族・山下町の人々

  40年から46年、中地さんは横浜を離れ兵役で旧満州・沖縄に転戦する。沖縄で捕虜になり、横浜に帰ってきたのは46年末。本籍地の兵庫でなく、空襲を受け焦土となったこの町で再出発する。

   「役所の不要品を扱うくず屋再開です。払い下げの家具も扱いました。官庁から出る古い本棚などに《三工社》と書いてあるのがあって、これは中国の人が職人を百人くらい連れてきて横浜で作っていたものです。戦前は広東の人が籐いすを作っていましたね。」50年ころから米軍放出品も扱った。業者登録し入札して買い入れる。「店には日本中から買いにきましたよ。物さえあれば売れました。」戦後横浜の一時代が目に浮かぶ。


  横浜中華街関帝廟の前の骨董店《アンティークガレージ》は、中地清さんの長男、隆さんが経営する店。時を封じ込めた骨董の奥に、ドイツ・マイセン窯の古雅な陶人形が並ぶ。「このマイセンは息子が集めたものですが、この店自体は、その昔私が資料館を開こうかと集めた古い物をもとにして息子が始めたものなんですよ。」清さんは愛しそうに見回す。古きよき物を探し愛でる心と眼が、伝えられた。

(インタビュー 新倉洋子)

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