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  おなじみ中華そばのめんをいくつご存じ?1つではない! 定番〈ちぢれめん〉、太目の〈タンメン〉ホウレンソウの緑色を生かした〈翡翠(ひすい)めん〉、超極細〈龍髭(ロンソー)めん〉などなど、じつはこれ横浜中華街開港道にある【永楽(えいらく)】のめんのラインアップ。中華街の味を支える1軒である。料理店に納めるほか、中華街のコックさんが自宅用に買いにくるし、「めんは永楽のでなければ」とお取り寄せのファンが全国にいます。

 エプロン姿で店頭に立つ永楽製麺所会長、梁保強(りょうほきょう)さん、40年生まれ63歳。

  変わらないものと変わるもの-【永楽】の場合、変わらないのは何も加えず昔のままのめんの味、そしてめんへのこだわり。オリジナルスープの味も30年変わらない、変えない。「日本のラーメンの味の基準だという自負があります。」変わるのはめんの種類。技術屋さんといっしょになって究極の細いめん製造機を作り、スタッフと新しい素材で新しいめんを試作する。新しい小麦粉で…、色の濃いニンジンで赤いめん、イチゴで…?! 新製品の開発に熱心。ついには【小麦色】というパン屋を開いてしまった。「粉食を広めたい、ということもあって。勉強を兼ねてです。」5年限定であった。

保強さんの父・乃遷(のせん)さんは広東省出身。横浜にいた親戚を頼って38年に来日し、中華街にあった【永楽軒】でコックとして働いた。その父が戦後の一時期勤めていたGHQで現物支給される小麦粉で、母・黄潤簾さんは近所の店から頼まれて手打ちめんを作り始める。屋号はまだない、中華街の路地裏の自宅の一室、6畳ほどの小さな工場?であった。保強さんが手伝ってめんを1食ずつ計っていたのは小学生のころ、配達を引き受けたのは中学生の時。


梁保強さん


  大学で電気工学を専攻した保強さん、卒業後は音響関係の会社に就職する。「オーディオブームが広がり始めたころで、仕事自体はおもしろかったんですが…。」母は「食べ物の仕事は安定した職業」と長男を説得する。そうして1年経ったころには今のこの仕事をしていた。父は有楽町【山水楼】でコック長を務め、めん製造はずっと母が切り盛りしていた。


85年、横浜高島屋に出店

  「営業的なことが好きなんですよ、ラーメン屋を訪ねていって、年に2、3軒でも少しずつ納入先を増やしていったんです。」近所の人が買いにくるので工場にガラスケースを置いて店売りも始めた。高島屋の催事出店に声を掛けられて以後、デパートやこだわり食品館などに製品を納めるようになった。宅急便のシステムが整いつつあった時代である。「一度店へ来た人が友だちに紹介し…、いいものは口コミで広めてくれます、全国から注文が来る。宅急便が大きな力を与えてくれました。時代の流れ、システムに助けられたことは大きく、チャンスに乗れた。」それも、チャンスに乗れる実力が蓄えられていたからこそのこと。


  47年にアマー(お母さん)が始めためん製造、67年に店名「永楽製麺所」を掲げ、77年に設備を拡大して会社組織にし、87年に本牧に製造工場を拡大移転し、94年に現在地に店舗と工場が入るビルを完成させた。広い売り場にめんとそのまわりのあれこれ、スープ・具・どんぶり、なんでもある。「3人4脚で少しずつ実績を積み重ねてここまでやってきました。」3人4脚、アマーと保強さん、そして義弟の楯紳一さん。楯さんは大学在学中から保強さんの妹・旺秀さんと交際し永楽製麺所をアルバイトで手伝い、卒業後はそのままここに入社した、現社長。

 工場の朝は早い、4時から操業、午前中にめんの配達を終える。「仕事を楽しみたい。めんに対する夢をもっと広げたいですね。」

  スポーツカーが好き。この辺りで「幻の名車」トヨタ2000GTを見かけたら、運転しているのは保強さんです。

  ワタクシ的にもちもち厚めのギョーザの皮もオススメです。

(インタビュー 新倉洋子)


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