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昴 KOU |
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中華街の菜館で先日ある祝宴が開かれた。自らバイオリンを弾き、秦琴とセッションする主は梁兆華(りょうちょうか)さん。1915年生まれ88歳。そう、この日は梁さん米寿のお祝いの宴席。
「no music no life 没有音楽没有人生」タワーレコードのポスターに、知る人ぞ知る横浜中華街出身のレゲエグループFIRE BALLといっしょに収まる秦琴を手にしたおじいちゃん、この人が梁さん。ちなみにこのポスターの背景は中華街《悟空茶荘》デス。
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以下は「中華街の大物」梁兆華さんが明るく語る横浜人生。
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「戦争が終わった時は小公園のそばで《萬成号》という食料品店をやっていました。タケノコと野菜と、その時は米も油もやっていた、ヤミで。どうしてできるかというと、戦争で中華民国が勝ったので特権を利用してやっても大丈夫、つかまらなかった。」
「3年後大通りに引っ越した、貿易がやりたいと。神戸でもやっていたほんとうの輸出入貿易がしたいと。でも難しかったよ。中国と親戚兄弟と連絡が全然取れなかったし、元のお客さんもみんなだめになって。だからタケノコと野菜とかん水、食料品卸してたよ。」
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梁兆華さん
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「シイタケ(貿易)やりながらフカヒレ工場開きました。いま西門通り裏の《大栄タクシー》のある場所50坪くらい借りて。貿易は商品ないとできないからね。原料は千葉の銚子から生を持ってきた。(あのころ)日本の中華料理はフカヒレ食べない、全部輸出用。戦争で香港へ輸出する商社がなくなったので話をうちにもってきた、『職人よこすからやらないか』言って。油ヒレ大〜きいのトラックで持ってきて金糸フカヒレ作るの指導してくれてとってもきれいなものできたよ。でもうちで売るのは小さいのだからこれは必要ないって、(今考えると)もったいなかったね。生ヒレを大なべで煮込んで柔らかくして肉骨と分けるの、肉は鶏やブタのえさで売れるし骨もビタミン(?)に売れる。うちのフカヒレ四角く作って「龍鳳牌」1つ60円、4つで1斤。1回輸出に出せば後は検査いらないの、直接サンパン借りて港で船に積んで、代金も船で持って返る、そういう取引。だけど3年たったらそばに加賀町警察署ができて『梁さん臭いよだめだよ、移動してよ。』って(言ってきた)。それで磯子へ移ったけど、工場が小さくて、注文いっぱい来るけど製品が間に合わない、それで止めちゃった。」
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51年ごろ、関帝誕の舞台の後で
(梁さん後列左4人目)
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「これで商売できなければ次って考えて、山下町の工場は『そうだせんべいが売れる』って、すぐ改造してせんべい工場にした。せんべいも料理屋のご飯も、米は山下町の韓国の人が埼玉や新潟から持ってきたよ、みんなヤミ米。米は見つかると警察に没収だけど加工品は違反じゃないの。白いせんべいを屋根で干して、甘いの辛いの醤油とか砂糖塗って。御徒町からトラックで取りに来ていた。60年ころまでがいちばんもうかったね。そのうちこの町でもみんながせんべいやるようになってもうからなくなったから止めて、工場はアパートにした。」「あのころ入港する中国の船員はチューインガムとかくつや下着を持ってきて、干ししいたけと交換していったよ。」
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梁さん、食品研究に余念ない。香港から製品が入らない時代、辣椒油・麻油・辣椒醤・豆瓣醤・カキ油…などなど、この街の人に請われるままに「製造販売」してきた。いまも西門通りの《萬勝商事》には、ほかで手に入らないヘビーな「手作り食品」が並ぶ。「馬友や曹白のハミユィ(咸魚)、自分で切ったの香港よりきれいよ。梁さん作ってよ、ってみんな言うの。(人が)作れないものを考えるよ。」
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| (聞き手 曽徳深)
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