 |
徹 TETSU |
|
|
石窯から出したばかりの焼きたての叉焼(チャーシュー)。おいしそうな焼き色と香り! まだ熱いそれを切り取り口に入れる、歯ごたえ◎、肉汁がじわッ! 肉のあまみが口に広がる…おいしいッ!
叉焼で中華街を代表する大通りの《有昌》。味はこの人が守る、林煜銘(りん いくめい)さん、36年生まれ67歳。「子どもの時に親に連れられてきた人が今、『懐かしい味だね、変わらないね。』と言ってくれるのが一番うれしい。」
|
関帝廟などでブタの丸焼き「全皮猪」が供えられているのをご覧になるでしょう。ブタの丸焼きは縁起のよい食べ物。今年も関帝誕(旧暦6月24日)には煜銘さんの手で焼かれたブタ2頭が供えられた。煜銘さんが子どものころは横浜中華街の結婚式で6匹、10匹と注文があったとか。「昔の結婚式の格は、丸焼きのブタの頭数で決まったものなんだよ。」以前は清明節にもお供えしたそうである。
「《有昌》の味はお父さんの残した財産です。肉と窯と燃料が独特で、肉の切り方、味の付け方、焼き方、すべてお父さんが考え出したもの。教わったやり方しか私は知りません。」
|
煜銘さんは法政大学社会学部を卒業して貿易会社勤務3年、父・潤有さんが病気をしてから本格的にこの仕事に取り組んだ。もちろん、中華街の子どもがみなそうであるように小さいころから腸詰めに詰める、干す、など手伝いはしていた。「肉屋で父がどの肉を選ぶのか、考えるのも楽しかった。」「わからないことは何でも聞きましたよ、何でも答えてくれた。」父に教わったとおり、ブタもも肉1本から筋を取り除きながら叉焼用に50センチほどの肉を6、7本切り取る、これが難しい。一晩たれに漬けて味を付け、翌朝焼く前に色付けして窯に20本ほど吊す。たれは1回限りで捨てる。窯は縦・横約80p、高さ1mほどの石造り。火力はまき。桜が一番、でなければ柿・栗・梨など果樹や「なら」、堅い木がよい。少々乾燥した生の木を手作業で割ったもの、乾燥しすぎていると肉に香りが付かないうちに燃え尽きてしまう。火が直接肉に当たらないようにして1時間半、こうしてほかで味わえない《有昌》の叉焼ができあがる。店頭には腸詰めや、アヒル・鶏の丸焼き、皮付き焼豚「焼肉(シュゥロ)」などの焼き物と、ブタの耳・胃袋・タン・しっぽ・トン足を煮た物も。「アヒルのぺちゃんこにしたもの「爉鴨」は父から聞いてないからできない。塩漬けの加減が難しいの。」窯は耐熱・保温性がある千葉県鋸山の砂岩を切り出して積んだ、これも潤有さんの考案。
|
|

林煜銘さん
|
|
潤有さんは広東省の出身、1902年生まれ。20歳のとき親戚を頼って横浜に来て《東坡楼》で働く。が、すぐ関東大震災に遭い神戸を経て帰国する。郷里で結婚し、程なく妻を伴って再び横浜へ。雑貨屋《均昌》(現・中華料理店《均昌閣》)で、商品である「焼き物」を修業する。10年後、煜銘さんが生まれた直後に独立し、名前の「有」と店の「昌」をとって《有昌》を現在の地に開店した。店は大繁盛、東京から根岸の競馬場に来た政財界人などがおみやげに求めたという。両親は忙しく、子どものとき一時預けられたことを煜銘さんは覚えている。戦中戦後すぐの時期は肉が配給になり店を閉めたこともあったが、以来67年が経った。
|
| 
88年に「Hanako」に掲載された
|
|
「『レシピそのままで大量生産を』とか『宅配便で送って』など要望があるけど断っているんです。すべて手作業で限度あるし、自分の手でできるだけでいい、と思っているよ。夏は40度にもなるし煙いし、かなり大変な仕事だね。」
「店の看板」は煜銘さんの妻・任聘球さんと弟・国君さんの妻・麦肖芳さん。2人は神戸出身。 「厳しいお母さんだったの。包丁の持ち方、力の入れ方、分銅はかりの使い方…、厳しくされたから今できる。」と聘球さん。 |
|
正月のお節に《有昌》の叉焼を手に入れるため朝早くから店の前に並ぶ、これは横浜中華街の年末風景。今年、あなたもいかが?
《有昌》045(681)1978
|
| (インタビュー 新倉洋子)
|
| 【戻る】 |
| |
|
| 【PERINETホームページ】【PERINET企画サイト】 |
|
webmaster
Copyright(C)2003 PERI |
|