世界の街角で

スージー・ウォンの物語

文・写真/滝田祥子(横浜市立大学教員)
 スージー・ウォンは私の10年来の友人ですが、私は彼女のことをずっとスージー・シミズとして知っていました。昨年夏にサンフランシスコでインタビューをして彼女の中国名が「ウォン」だということをはじめて知りました。不思議でしょ、長年の友だちの名前をきちんと知らないなんて。じつは、サンフランシスコ沖に浮かぶ島、エンジェルアイランドで1906年のサンフランシスコ大地震以降に入国審査を受けて入ってきた中国移民を親に持つ子どもにとって、家族の名字をめぐる複雑な物語があったのです。
 まずスージーをご紹介します。上の写真を見てください。左に写っているのがスージーです。スージーの夫、ヒロシ・シミズは第2次世界大戦中に日系アメリカ人が強制収容所に入れられていたときに、そこで生まれた日系3世です。彼と私は強制収容所の跡地を訪ねる巡礼の旅をもう10年近く企画運営しているNPO仲間です。スージーに初めて会ったのも、そんな巡礼の旅でした。参加者名簿を見ていると、エスニシティー欄にShinajinと書いてある人がいたので、びっくりして見ると、そこにはスージーの名前がヒロシの配偶者として書いてありました。この一言には、これからお話しするような日系・中国系アメリカ人家族の歴史がつらく重なっていました。

 お話の本筋に入る前に、彼らが住んでいるサンフランシスコはどんな街か説明します。観光スポットとして有名なのはダウンタウンにあるチャイナタウンですが、スージーの家に程近いリッチモンド地区(左写真)はニュー・チャイナタウンと呼ばれています。ただチャイナタウンというイメージとはかなり違っています。ここでは、中国系の建物だけでなく、ロシア正教のモスクをはじめとして様々なエスニック・グループの建物やお店が混在しています。つまり、華僑だけのエスニック・アンクレイブ(民族集住地域)ではなく、アジア系を中心として様々なエスニック・グループが非常に開放的な形で互いに隣り合いながら共生している地区になっているのです。日系アメリカ人や日本からの新移民も多数住んでいますし、私が5年程住んでいたのもこの地区です。中国系のご老人が昼間集うドーナッツ屋さん(なぜか男性ばかり)はロシア人が経営していますし、映画館の前にあるアイスクリーム屋さんは「ジョーの店」という名前がついていながら日系新移民のムツヒコさんが経営しています。ちなみに写真の右端に写っているレストラン「五月花酒家(メイフラワー)」はサンフランシスコで一番おいしいと評判の中華料理店です。スージーと何度も行きました。
 スージーは45年にサンフランシスコの北、ワインで有名なナパ・バレーに生まれました。父親は30年代に広東省からアメリカに渡り、母親は日本軍の空爆が激しさを増す中国から40年に写真花嫁としてアメリカに来ました。この二人の長女スージーがヒロシと結婚すると告げたとき、両親は猛反対し、結婚式にも結局出席しませんでした。当時スージーは母親の気持ちが理解できず「お母さん、あなたはアメリカにいるのよ。アメリカにいるのだからあなたはアメリカ人で、私はアメリカ人のヒロシと結婚するの」と訴えたそうです。日系アメリカ人であるヒロシの両親はスージーを温かく家族の一員として迎えてくれたとスージーは言います。が、ヒロシの父親が彼女を呼んだ言葉が「Shinajin」すなわち「支那人」だったのです。ヒロシの父は戦前の日本の教育を受けた帰米2世でした。そこにスージーに対する差別の気持ちはなかったと信じますが、私はスージーの両親の気持ちを考えてしまいます。
 ヒロシと結婚する前のスージーは週末ごとに家族でサンフランシスコのチャイナタウンにやってきて買い物をするのが楽しみだったそうです。ところが50年代末のある日、そこで不法移民の一斉取り締まりが行われてから彼女一家の幸せは少しずつ壊れていきます。父が移民局に逮捕され、彼女は自分の本当の名字が「ウェイ」であることを知ります。彼女の父は、サンフランシスコ大地震で大量の出生証明書類が消失したことを利用し、「ウォン」として入国した「ペーパーサン」の一人だったのです。幸いにも父親は保釈されますが、母はそれ以降常に逮捕を恐れるようになり、心を病みました。

 結婚し家族を持ったスージーにとって、その名前は、偽の名前の「ウオン」でも、実の名前の「ウェイ」でもありませんでした。サンフランシスコという民族的差異に寛容な街で出会ったアメリカ人の名前、「シミズ」を選んだのです。

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