世界の街角で

チャイナタウンで発見した
アイデンティティ

文・写真/メリアン・チャウ
(フルブライト研究生)
 初めて横浜中華街に足を運んだのは日本に来たばかりの昨年9月だった。その日は火曜日の暖かい朝で、レストランはまだ開いていなかった。中華街は夜通しの賑やかさの後、眠っている巨人のように感じた。私は中華街の細部をできるだけ観察した。装飾的な牌楼、清潔な街並み、プラスチックの料理見本のディスプライ、中華街の境界は? これまでずっと中華街の研究のために心の準備をしてきた私はやっと自分自身中華街に立っていることを信じられなかった。私は自分に「ここはこれから1年間自分の「ホーム」になるだろう」と言い聞かせた。
 私は香港で生まれた。6歳の時に家族とアメリカのカリフォルニアに移民して、今アメリカの国籍を持っている。18歳の時、家を離れてボストンのタフツ大学に入学し、去年の5月に、国際関係主専門・日本語副専門で卒業した。そして9月にフルブライト奨学金により、横浜市立大学に研究生として来て、横浜中華街とアメリカのチャイナタウンの比較研究をしている。
 2年前までの私には、チャイナタウンを研究する興味が全くなかった。それ以前、チャイナタウンはただ中華学校に行く義務を果たすところ、家族友人と週末に食事しに行くところ、母親が普通のスーパーに置いてない中華材料を買うところでしかなかったのだ。自分の普通のアメリカ生活の中でまだ切り捨てていない部分だと思っていた。 でも大学4年生の時、偶然に学校主催の「Building Bridges」(架け橋)というプログラムに参加した。これはタフツ大学がボストンチャイナタウンのさまざまな組合に学生のインターンを派遣し、技術と情報を交流するためのものだった。その時から私は、チャイナタウンはどんなところなのかをちゃんと考えるようになった。週末以外のチャイナタウンはどんな様子をしているのか?チャイナタウンの中にはどんなコンミュニティが存在しているのか?中でもとりわけ重要なことは、自分にとってチャイナタウンはどういう意味を持っているのか?ボストンチャイナタウンでのこの1年間に、自分の中国語を活用しながらチャイナタウンの住民を手伝ってとても満足感を得た。
 横浜中華街はアメリカのチャイナタウンと違うのが当然だ。横浜中華街は@商売上日本人観光客を主なターゲットにしている、Aりっぱな牌楼を施している、B来客総数が非常に多い、という3つの特質があり、英語能力と所得が低い中国人の移民に対応しているアメリカのチャイナタウンとは異なる。私が最初に持った疑問は「横浜中華街は誰のためにあるのか?」でした。中華街は明らかにエキゾチックで横浜市の象徴的な観光地として発展してきた。しかし私は今までの文献研究と、中華街のイベントに参加し、また違う世代の華僑との会話によって、中華街の観光地以外の面を確認することができた。私が見た横浜中華街は「皆が皆を知っている」家族性の強い相互扶助のネットワークを中核にし、世代間で技術・伝統・知識が継承される場所だ。この中華街の核心によって、変わりつつある環境の中でただ生き残るより、中華街はむしろ栄えてきたのだと思う。 多くの住宅は商店になって若い世代も徐々に日本の社会に溶け込んでいく傾向がある一方で、中華街で育った華僑は中華街がまだ自分の「ふるさと」だと思っていくだろう。「ふるさと」だから、彼らがネットワークを守り続けたいと思っていること 以外に、日本語だけ話して日本の国籍を持っている3、4世の華僑が戻る魅力がそこにあるのではないでしょうか。

 この10か月の間の中華街の一番印象深い思い出は、研究者としてより、むしろ中華街の一員として行事に参加したことだ。みなとみらいのパレードで龍舞を発表したこと、横浜華僑総会の春節聯歓会に参加したこと、山下公園で20人の仲間とともにドラゴンボートを漕いだことは絶対忘れない。今年この中華街で、子どもの時当たり前だと思っていた中国の文化にもう1回接触するチャンスをもらって自分のアイデンティティを確認することもできた。
 横浜中華街は自分のダブルアイデンティティを表現できる場所であり、私が中国語を話す時人々に繋がることができる「ホーム」だ。世界各地のチャイナタウンに行っても、華僑の私にとってチャイナタウンはそんな場所であり続けるでしょう。
 

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