惇 JUN 

  5百m四方ほどの地域に密集した約5百の店舗・事務所・住宅。方角の分かりにくい沢山の狭い通り。そして赤黄黒色の原色の看板。赤い電柱を見上げれば電線が視界を走る…、この狭さ、わい雑さ、ゴチャゴチャこそが中華街!?

 今、横浜中華街の象徴といわれたあの赤い電柱は、ない。

 「中華街の環境整備」は10年以上前に始められたプロジェクトですが、実現までには多くの困難がありました。物理的制度的技術的制約、そして「横浜中華街はこういう街」というこの街のコンセプトをまとめ、景観に関する関係者の意思統一が必要でした。

 関帝廟再建後の93年、中華街の経済団体や同郷会、青年や婦人の団体、華僑総会など24の団体は横浜中華街街づくり団体連合協議会を結成し、行政とかかわって洗手亭(公衆トイレ)をつくり小公園を整備します。95年にこの街のアイデンティティを重視し街に誇りをもつべく「中華街憲章」を制定。98年には中華街全体の下水道整備・電線地中化・道路環境整備についての基本構想案をまとめました。そして、このたびの大通りの環境整備が実現したのです。

  「あの赤い電柱は中華街の象徴となっていますが、道路環境の整備からはどうにかしないといけなかった。それぞれの店舗が中国文化の「本物」にふさわしい店構えをしていけば、道路など公共部分は自己主張しなくてもよいのではないか、ということです。中華街で牌楼や関帝廟の役割は大きいですね。」と話すのは、加川設計事務所の加川浩(かがわ ひろし)さん、41年生まれ63歳。

 その昔、横浜市の外郭団体・中小企業指導センターで、2度にわたって横浜中華街の「診断」を手伝った加川さんは、中華街の牌楼建設が具体化したころから行政とのパイプ役となって整備事業に取り組みます。「東京は芝で生まれ育った3代以上続く生粋の江戸っ子」加川さんが「内心忸怩たる思いながら」横浜中華街の街づくりにかかわって、すでに13年ほど。


加川浩さん

 加川さんは早稲田大学建築科卒。影響を受けたのは、哲学する都市計画家・浅田孝氏。「道路・鉄道・公園などの都市計画は公のもの、お上の仕事で、民間が都市を計画するなど何事かという時代」ながら、アメリカでは「市民参加」「環境問題」という言葉が使われ始めていたとき、浅田氏は「都市計画は民間でも議論すべきこと」と考えて滑ツ境開発センターを主宰しており、加川さんは大学在学中からここに入り浸り寝泊りして多くを学んだ、と言います。そして横浜市と町田市にまたがる「こどもの国」のマスタープラン作りなどを手伝いました。

 横浜市とのかかわりは、飛鳥田一雄氏が横浜市長になった63年。人口増加・公害・米軍の接収地等々の難問を前に「市政への市民参加」を求める市長は、横浜のこれからの都市づくりを浅田氏に相談します。浅田氏はバラバラに進んでいた都心部強化事業や地下鉄などを複合的に進めることを提案したのでした。

 のち加川さんは個人事務所をつくって独立、港北ニュータウンの基盤整備、交通体系をどうするか、が初の事業でした。以来30年、市の仕事の中で野毛や上大岡など地域の街づくりに携わり、街と行政をコーディネートしています。

 横浜中華街―安心で安全な道、緑のある安らぎの道、整備は実現しましたがこれからが大事。バリアフリーはまだ完璧でなく、樹木はメンテナンスが必要、そして…。「横浜中華街は『戦う街』ですね、行政、文化、お客様と戦っています。横浜中華街の元気の源は常に大きな対象と戦っていること。本物の中国文化をどう根付かせるか表現できるか、これは遠大な戦いです。またお客様と高度な戦いのできる店であってほしいですね。」

 「横浜中華街にあるような日・中・アジアのクロスカルチャーを発展させることは、21世紀の国際都市横浜の一つの方向であり、使命でもあると考えます。」
 

(インタビュー 新倉洋子)

【戻る】


【PERINETホームページ】【PERINET企画サイト】


webmaster
Copyright(C)PERI