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父も初めは午前中だけここで商売していたようです。その後ここに住みつき、私たち兄弟姉妹5人はここで生まれました。」 「八百屋といえば、戦前大通りにあった秦野屋が大きかった。信濃屋も平綿さんも古いね。」戦前の中華街のあれこれは、忠秀さんは小さくてほとんど記憶にない。ただ今も忘れられないのが 45年5月の横浜大空襲、4歳だった。市場通りの東側はそのころ原っぱで、防火用水・防空壕があった。あの日、姉・兄は学童疎開で箱根におり、父は警防団で消火活動、母・弟と3人で防空壕に入った。防空壕からふと外をのぞくと、市場通りの北には火の手が上がっていた。母は弟を背負い、忠秀坊やの手を引いて南へ、元町との境にある堀川の方へと逃げる。急降下した戦闘機が機銃掃射する。あたり騒然。「中国の人は赤い布団を頭にかぶっていたんですが、それが戦闘機の目印になるから取れとか取らないとか、けんかにもなりますね。服に火が着き熱くて堀川に飛び込んだ人は、ほとんど亡くなったようです。」ねんねこに焼夷弾の火が着いた弟・公章さんの背中には今も大きなやけど跡があるという。港の見える丘公園の下まで逃げた。近所のおばさんが拾った弁当を、もらって食べたことを覚えている。父とは無事再会し、何日か秦野に避難してここに戻った。「中華街の焼け野原の中で、輸入したバナナを熟成させる地下の室が残っていて、ここがわが家だということがわかったそうです。」 近くの横浜小学校は戦後に中学となり、忠秀少年は桜木町にある本町小学校に入学、すぐ元街小学校に転校、さらに2学期からは両親の意向で横浜国大付属小学校に通った。「近所の子とは、日本の子も中華学校の中国の子も朝鮮の子も学校関係なく路地で遊んだ。貸し自転車や釣り堀があったね。」
【池川商店】045-641-1682 |
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| (インタビュー 新倉洋子 ) |
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