恭 KYOU  池川忠秀さん


池川忠秀さん
 横浜中華街・市場通り。7月の【池川商店】の店先には、空心菜・香菜・油菜芯・ニガウリ・広東小白菜・花ニンニク・金針菜…、中国野菜があれこれ並び、足を止める人に店の女性が、「これは中国の野菜、塩味で炒めて食べてみて。」と食べ方を教えていた。

【池川商店】は 27年に創業し、初めは果物専門店。「戦後の一時期、物資統制で果物はぜいたく品扱い。野菜を扱えばガソリンも手に入る、というので野菜も扱うようになったようです。」店の歴史を語る社長の池川忠秀(いけがわ ただひで)さん、40年生まれ66歳。父、兄に続く3代目社長。

 父・啓次さんは大阪の出身で、両親が亡くなり親戚のお寺に預けられることになったとき、それがイヤで横浜に出てきた。「1人で来たと言っていましたから、 10代半ばでしょう。マニラなど南方へ行って一旗揚げようと思って、まず横浜にと思ったようですね。」

そしてすぐ、 23 年の関東大震災に遭遇する。知り合いの大工さんを手伝って復興の仕事をし、それが一段落して【池川商店】を始めた。母・マツさんは横浜生まれ。「市場通りというのは、ここの道端に朝市が立ったのが始まりです。

 父も初めは午前中だけここで商売していたようです。その後ここに住みつき、私たち兄弟姉妹5人はここで生まれました。」

 「八百屋といえば、戦前大通りにあった秦野屋が大きかった。信濃屋も平綿さんも古いね。」戦前の中華街のあれこれは、忠秀さんは小さくてほとんど記憶にない。ただ今も忘れられないのが 45年5月の横浜大空襲、4歳だった。市場通りの東側はそのころ原っぱで、防火用水・防空壕があった。あの日、姉・兄は学童疎開で箱根におり、父は警防団で消火活動、母・弟と3人で防空壕に入った。防空壕からふと外をのぞくと、市場通りの北には火の手が上がっていた。母は弟を背負い、忠秀坊やの手を引いて南へ、元町との境にある堀川の方へと逃げる。急降下した戦闘機が機銃掃射する。あたり騒然。「中国の人は赤い布団を頭にかぶっていたんですが、それが戦闘機の目印になるから取れとか取らないとか、けんかにもなりますね。服に火が着き熱くて堀川に飛び込んだ人は、ほとんど亡くなったようです。」ねんねこに焼夷弾の火が着いた弟・公章さんの背中には今も大きなやけど跡があるという。港の見える丘公園の下まで逃げた。近所のおばさんが拾った弁当を、もらって食べたことを覚えている。父とは無事再会し、何日か秦野に避難してここに戻った。「中華街の焼け野原の中で、輸入したバナナを熟成させる地下の室が残っていて、ここがわが家だということがわかったそうです。」

 近くの横浜小学校は戦後に中学となり、忠秀少年は桜木町にある本町小学校に入学、すぐ元街小学校に転校、さらに2学期からは両親の意向で横浜国大付属小学校に通った。「近所の子とは、日本の子も中華学校の中国の子も朝鮮の子も学校関係なく路地で遊んだ。貸し自転車や釣り堀があったね。」


「四姉妹」左から菊代さん、モトさん、好子さん、公子さん

 50年代の写真に写る【池川商店】は、店頭にリンゴが山積み。父亡き後は母を中心に兄弟、その家族みなが店にかかわり、いま仲卸や新横浜プリンスペペ店、そしてここ中華街市場通り店と、手分けして商売する。市場通り店は毎週火曜日は特売の日。店に立つのはきさくな「四姉妹」、すなわち長男・豪一さんの奥さま好子さん、次男・忠秀社長の奥さまモトさん、三男・公章さんの奥さま菊代さん、次女の公子さんの「四姉妹」。

 店の将来像は?「この業態を続けてほしいけど、次の代は好きにしていいよ、と言っているんです。」と忠秀さん。忠秀さんの息子・右二さんは「どんな業態でも、仕事する側もお客さんもハッピーになれるビジネスをしたいですね。」  
 

【池川商店】045-641-1682

(インタビュー  新倉洋子 )

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