創 SOU 曽 徳深さん


曽 徳深さん


  横浜中華街1月1日午前0時。新年を迎え、爆竹がバチバチバチッと火花を散らし、ドラや太鼓が鳴り響いた。それより前、関帝廟と媽祖廟では新年を祝う迎春カウントダウンが行われ、中華学校校友会国術団が獅子舞と舞踊を、神戸市立兵庫商業高校の龍獅團が龍舞を奉納、詰めかけた大勢の人が中華街で新年を迎えた。

  関帝廟と媽祖廟の理事を務める曽 深さんは、神事を終え、爆竹の鳴り響く中華街を一回り。

  今回の「中華街でニイハオ」は、本誌が紙面からインターネット配信での発行に移るにあたり、発行者・曽 深をご紹介します。曽 深は横浜中華街おいしさネットワークを構成する会社の社長を務めます。
 「年ごとに、1月1日の元旦も開店する店が増えてきましたね。」中華街では近年、店舗が代替わりしたり、今まで店舗に使われていない建物が料理店や土産物店になる例が多くなっている、と話す。「これらの店の多くは、80年代後半以降に中国から来た「新華僑」といわれる人の経営で、この人たちは働くことに一生懸命です。来日して1日に2、3個所掛け持ちで働き、倹約し、まず中華街の外で店を始め、その後ここ中華街に店を持つようになりました。」日中国交が正常化した72年、日本に中国人は5万人ほどおり、この人たちは「老華僑」と呼ばれます。35年を経て現在、中国人は60万人弱、高学歴の日本留学生が起業しあるいは会社勤めする一方、働いて店を持つ夢を日本で果たす庶民がいます。

 「街の発展に伴い近年、人が集まるから広告によいと大型ビジョンを設置したり、歩道にまで商品を積んで通行を妨げたり、ゴミの不法投棄、さらには客引きなど、社会規範に違反する事柄も多くなっています。」街では関係団体・者が集まって横浜中華街「街づくり」団体連合協議会を結成し、2年前に「横浜中華街 街づくり協定」を制定するなど、横浜中華街の景観とコミュニティを次世代に引き継ぐべく、努力しています。「日本での生活が長く、5世、6世になる老華僑は、日本と中国の両方を見てきました。「落地生根(異郷の地に根を下ろして生きる)」「安生楽業(仕事を持ち安定した生活をする)」をめざすには、日々暮らす場がよくあってほしい、2つの国が仲良くあってほしいと願っています。外部資本や新華僑の流入に伴って起きる諸問題の解決に、老華僑社会はその役割を果たすべきでしょう。」

  曽社長は、広東省から来日した両親の下に40年、6人姉弟の長男として横浜中華街に出生。

  「自分は中国人」と意識したのは神奈川県立翠嵐高校に進学し日本人社会に触れてから、と言います。中学までは横浜山手中華学校に通学。「学校では全て中国語で、日本語と英語の授業が小5で同時に始まりました。そのころ日本語は、日本の少年向け月刊マンガや手塚治虫のマンガを読んで学んだ。マンガから人生を学んだんです。今でも『ビッグコミックオリジナル』は愛読書。」

 両親が営んでいた【耀盛号】は継ぎたくないと、日本大学は工学部に進学、新中国で建国に携わるという夢もあったとか。大学卒業後は華僑団体に勤務。「家業は継がなかったが食には一貫して興味があった」曽社長、【新光貿易】を経営して日本初の業務用ウーロン茶や上海カニの輸入を手がけ、【耀盛号】【珠江飯店】の経営も引き受けて今に至ります。

  「食の川上(食材輸入/【新光貿易】)から中流(食材卸・小売/【耀盛號】【悟空】)、川下(料理店/【珠江飯店】【菜香】)までが仕事です、結構楽しく仕事しています。」


6人姉弟そろって、右端がコ深さん(50年ころ)

 「横浜中華街は食の街。食を基点として、この街に生きる人々、数々のおいしさの物語、そして背景にある中国文化を、中国陶磁器の一つ「豆彩」に盛り付けるように」97年に創刊した本誌『豆彩』は、おかげさまで67号を数えました。ご高覧感謝申し上げます。次号よりインターネットで配信予定です。
  

  
(インタビュー 新倉洋子)

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