世界の街角で

プーアル茶のふるさとは今…

文と写真/田島知清(民族学研究者)


「易武正山(イーウジェンシャン)茶」という言葉があった。お茶の産地ブランドである。宇治茶、狭山茶などというのと同じだ。半世紀前は、香港でも知られていた名前だった。でももう死語となってしまった。易武という産地を含めた、もっと広い産地ブランドというとプーアル茶ということになる。香港では広東語読みして、ポーレー茶と呼んでいる。正山、というのは本家本元という自称である。易武産のお茶こそポーレー正宗なんですよ、という意味だった。
 易武は雲南のいちばん南に近いところにある山村である。その易武に、産地のフィールドワークで、ほぼ一年滞在した。この辺境に日本から一番短い時間で行くには、雲南の省都昆明空港で飛行機を乗り継ぎ、まず西双版納(シーサンパンナ)の景洪に着く。そこから車で四時間である。 易武の第一印象はとてもよかった。あるところで道の両側の木立が途切れた。ドライバーが「あの山並みが易武です。」と言う。バスとの高度差は2、300mだろうか。雄大な眺めであった。普耳茶のふるさとは、雲南を西北から東南に走る横断山脈のどこかにある、そういう予感にぴったりのロケーションだった。
村の住民が、漢民族でその出身地が私が前に訪れた石屏(シービン)という町であるというのも奇遇だった。雲南で私がいちばん好きなのは石屏のゴマだれとラッカセイだれの米線(ミーシェン)なのだ。もっとも石屏の名前を覚えたのは米線を食べたからではなく、石屏豆腐を食べたからだった。留学先の雲南大学のそばに店があったのである。石屏の豆腐は雲南でも知られている。豆腐は水のよしあしで決まるというが、地下水が凝固剤を含んでいるらしい。町は600年の歴史をもつ。この狭い盆地からあふれた人々が、山の尾根伝いに300km離れた易武まで移動していったのだ。  
 「易武正山」はどのくらいの広さがあるのだろうか。縦80km、横30kmぐらいの短冊型の土地である。海抜は1000〜1300m。一面茶畑ではないし、あまり広くは感じない。関帝廟があり、茶問屋があったのは、曼乃、張家湾、曼洒、麻黒、曼秀、易武、易比で、山の尾根、山並みのあいだの小丘陵に立地している。南部雲南の中心で空港もある思茅(スーマオ)から易武までは、1840年代に立派な石畳の道がつくられていた。この道を「正山貢茶」が馬の背に載せられて北京まで運ばれていったのだ。推定生産量の最高数字は650トンである。これは干した茶だから、生葉では4倍の2600トンになる。ともかくすごいものだ。でも今は盛んだったころのおもかげはない。小さな集落は廃村になっている。このあたりの農家は、お餅をつく石うすを地面に埋め込む。その石うすだけが日を浴びている。山刀と茶の木の枝の杖を手に、藪をくぐって行くと、茶の老樹が雑木林に混じっていたりする。放し飼いのぶたが一声ほえた後あわてて草むらに身を隠す。そして青嵐が竹をこすりあわせて、悲鳴に似た音をあげさせた。
 村が集村化され、谷間や道路沿いに移転する、また村人が離村し都会に出る、そうした現象は解放後進行してきたが、近年加速しているようだ。昔は4〜5mもある茶の木が山腹に並んでいたというが、もうそうした光景は見られない。茶は安く、新興の産地は多い。「易武正山」は瀕死の状態なのだろうか。もちろん村当局も手をこまねいているわけではない。新品種を導入し、畝づくりの茶畑が開かれた。製茶業者がやってきて茶畑の真ん中に緑茶の工場を建てた。大都市の国営工場も「易武正山」の名前を思い出し、ブレンド用に少量買い付けを始めた。では未来に薄日が射しているのだろうか。
 「易武正山」の名前が有効だったのは、本世紀前半の長くて40年、短くて15年だった。これでは茶商や飲茶(ヤムチャ)食堂には知られても、一般人に浸透しなかったのも無理はない。でも村の人々は老茶樹の葉はおいしいと信じているし、無農薬の「天然茶」のほうが身体にいいと思っている。結局山地開発で大事なのは顔の見える農民がいて、確かな製品を作ることだと思うが、まず味覚の設計者がいなくてはなるまい。それは地元から生まれてくるだろうか。









※写真キャプション 易武で暮らした家族と(後中央、筆者)
老茶樹―昔は全部こんな木だった
易武の古い街並み「老街」
易武の200km北にある、プーアルの町
「易武正山」の心臓部、曼秀茶山




 



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