中華街でニイハオ!
冠 KAN KI


勢津栄興さん

2000年元旦に日付が変わるその時、にぎわう山下公園そばメルパルクYOKOHAMA郵便貯金会館の角で、屋台のラーメンを売る調理師姿の人がいた。勢津栄興(せつえいこう)さん、1940年生まれ59歳。「寒さにはとても強いよ、北国生まれだから。私の健康はびわ茶のおかげ。」とユニフォーム一枚で笑う、元気の人。
 勢津さん、「中華料理界にこの人あり」「メルパルクに勢津あり」といわれるほどの達人である。
 勢津さんの父親は中国福建省出身の華僑、来日後宮城県気仙沼で中華料理店を営んでいた。その気仙沼は、60年チリ地震の津波の大きな被害を受けた。店を再開するまで5年という約束で勢津さんは横浜中華街へ修業に来る、20歳であった。おじ薛来宏さんが、この地で初めての五階建て中華料理店、陽華楼を建てたばかりだった。「東洋一の中華料理店ができたと評判でね。ここからは今中華料理の世界で活躍する多くの調理人が育っていったんですよ。」
 「学ぶことはまだまだいっぱいあるなと思ったのね。」中華街に魅せられて20年が過ぎた40歳の時、勢津さんはメルパルクY.の開業にかかわる。当時、結婚式場メルパルクに中華料理部門はなかった。「横浜らしい結婚式といえば、出す料理はやはり中華料理でしょう。」朝三時四時まで仕事をし、料理を研究し、弟子を育てて20年、結婚式は3万組を超えている。昨年総料理長に就任。この肩書き、東京と横浜に2人だけ、中華料理出身としては初めてだそうで、現在全国のメルパルクの中華料理は全てこの人が見る。
 「中華街では食べられない中華料理をここで出そう、と基本を大事にした上でオリジナルを出そうと思ってやってきました。中華料理になま物を出すというのはぼくが始めたんです、今ではどこでも出しますがね。」「お客様のレシピは取ってありますから、次回には必ず新しいものを入れますよ。」「コースには必ずフカヒレ入れるんです。入ってないと中華料理じゃないと思ってますから。」気仙沼出身の勢津さんのこだわりである。

 一階にあるメルパルク直営の中華料理店杏樹(しんじゅ)のはし袋に「横浜マイスター、勢津栄興」の似顔絵。横浜マイスター、これは96年に始まった横浜市の制度で、優秀技能者と市が認めた者にその称号が贈られる。現在まで4期22人が任命されており、中華料理ではこの人ただ一人。「大変ですけど、名誉だと思います。励みになりますよ、大事にしたいなと思います。」5年を限って市のイベントに出るが、称号はその後も残る。中学校を回り、保健所の市民講座で料理講師をし、地域の健康教育に一役買い、あるいは防災訓練の炊き出し、みなボランティアである。「定年になり時間が空いたらもっとできるかな、楽しみだな。」メルパルクY.で最古参、今年60歳で定年を迎える。
 勢津さん、リーダーとして神奈川県中日調理師会副会長、(社)神奈川県調理師連合会常任理事をこなし、横浜中華街発展会では環境整備部長として中華街の衛生管理に取り組む。「難しいのはごみ問題だね。」でも以前に比べたら中華街はきれいになりましたよ。「今年はもっと強力に、クリーン中華街をめざします。」と、頼もしい。
 息子の文慶さんはお父さまと同じ道を選んだ。先輩としてえらい人が父親だと大変かしら?「業界の大先輩として接しなければだめだよと言い聞かせてます。私を師父(スーフ)と呼んでますよ。」娘の玲奈さんは、小学生の時、テレビの子供料理番組で魚介類と春雨の炒め物を作って優勝した。「私が春雨が好きなことを知っているもので。」とうれしそう。そのレシピ「海鮮粉糸」は、杏樹や息子さんの店である関帝廟通りの接筵(せつえん)でいただける。
 初対面の人にも親しく接する勢津さん、「苦労もしたけど、まあ悔いのない人生ですよ。私過ぎたことにクヨクヨしないんです、血液型がO型なんで。ハッハッ。」
(インタビュー新倉洋子)
写真キャプション
10年ほど前、子供さんと





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