(No.20-2000.4)【曽徳深】


 今の家に引っ越してきたときに、駐車場の一角をつぶして木を植えることになった。なにを植えるかで、家人と意見が対立した。私は、夏には日差しをさえぎり、冬に太陽の光がいっぱい差し込むように、落葉樹がいいと言ったのだが、彼女は、道行く人に家の中をのぞかれるのはいやだから、一年中葉が茂る常緑樹がいいと言いはった。数度議論した末に、垣根に山茶花、庭木に、一本は落葉樹、一本は常緑樹、棗(なつめ)の木と樫(かし)の木となった。本当は棗の木を二本植えたかったのだが……。
 「わが裏庭から、壁の外の二本の木が見える。一本は棗の木である。もう一本も棗の木である。」魯迅の散文詩集『野草』の中の一編、『秋夜』の最初の一節だが、中学の国語(中国語)の授業で教わり、どういうわけかずーっと頭に残っている。40年ぶりにあらためて読み返してみた。
 裏庭から見える棗の木、秋の高い空、冷たく瞬く星、冷たい夜気に震える桃色の花、夜半の自分が発する笑い声、ランプの火屋にトントン音立ててぶつかる飛び虫などの情景描写しながら、実は、魯迅は1920年代中国を取り巻く暗闇と、暗闇を突き破ろうと火に焼かれながらも繰り返し飛びこんでいく虫に象徴される抵抗者達を比喩的に描き、魯迅自身の絶望と希望のカオスを語っているのではないかと、今になってはじめてわかった。
 『秋夜』に「たとい秋が来ても、たとい冬が来ても、そのあとには必ず春が来、胡蝶が乱れ飛び、蜜蜂は、春の歌をうたう…」とある。わが家の一本の棗の木にも萌える春が訪れる。


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