中華街でニイハオ!
燎 RYOU


中山 厳さん

 横浜中華街で、関羽をまつる関帝廟、善隣門(中華街大通りの門)、南・西・北の牌楼(パイロー)、市場通り・関帝廟通りの門、洗手亭(加賀町警察裏のトイレ)、九龍陳列窓(九匹の龍の展示スペース)…と挙げれば、それらはここ中華街で目にする中国伝統工芸建築物、中国文化そのもの、である。
 その全て!を設計した人、それがこの人、中山厳(なかやまげん)さん、1953年生まれ47歳。一級建築士、RA(アールエー)建築設計有限会社の主である。
 世界中、華僑のいるところには必ず華僑の心の拠り所関帝廟がある。日本では神戸・長崎・函館と横浜。横浜の関帝廟は3代目が86年元旦の出火により焼失、幾多の困難を経て、4代目が90年に仮天井のまま一応の竣工をみる。その天井が今年4月に完成、着工以来3期にわたる工事は12年をかけてようやく終了した。総工費約10億円、今回の天井だけでも約2億円、これは横浜中華街のみならず、中国人・日本人、国内外からの寄付による事業であった。
 建築設計の道に進むようになったきっかけはなんでしょう?
 「中学3年生のとき、母校・横浜中華学院の数学の先生に『お前の描く三角形は線がきれいだから建築やってみたら。』って言われたの。それからですね、建築やってみようかなって意識したのは。建築ってなにやるのかも知らなかった、家建てることだろう、っていうくらい。」「もともと絵を描いたり模型作るのが好き、手で表現することが好きだったんです。」
 以来、建築家への道を一直線。大学卒業後30歳で独立。新関帝廟の設計の話があったのは中山さん33歳の時であった。
 大学では近代建築を学ぶので、日本建築や寺の設計などは通り一遍のことしか学ばない。ましてや中国建築・中国の寺に関する知識はまるでなかった。「話があった時、全然経験がないからどうしようかなあって。半分やりたかったんですけど、半分怖かったですね。皆さんの寄付金でやるのに万が一ぼくが設計ミスしちゃったら一生言われるし、中華街にはいられないだろうなって。」
 「やりたいんですけど怖いんです。」と返事したそうである。すると関帝廟の責任者が「がんばってやってみろ。」それから奮闘が始まった。中国大陸・台湾へ足を運び寺を見て回る、中国の大量の書物を買い込み読む、職人さんに話を聞く、それを繰り返した。渡航の回数「数え切れないよ。」
 ゼロからの出発といっても、中山さんはこの横浜中華街育ち、幼いころ関帝廟でかくれんぼをし牌楼を見て育っている、なによりこの街の空気を身にまとっている。中山さんは、祖父の羅正網さんが広東省南海から来日した華僑三世。事務所にRA(ら)と名を残す。「この仕事、ぼくが思うにやっぱり血が騒ぐんですよ、中国人として。」「地元に住む生活感からこの街にはどんなお寺が合うのかなという感覚的なところから始めました。」
  基本的には中国の伝統建築様式にならって本物を作る、いやそれ以上のものを。「制約の中で廟の建物を地面より上げたのが設計の最大のポイント。」大陸の職人は古代建築公司を通じて来てもらったが、台湾からは自ら探してきた。「つてもないところで信じあえる人間的な出会いができたことが今でも一番うれしい。」と振り返る。
 中山さんは、それ以後矢継ぎ早に街の公共的な建築を手がける。
 「たまたまお話があっていろいろなことをやらせてもらったこの14年間の街の流れと、ぼくの人生の流れの中で一番動けた時期、それがちょうど合ったんでしょうね。宿命的なものを感じますよ。」
  日ごろ気をつけていることは「睡眠を取ること」。「気をつけないと仕事ばっかりして睡眠がいつも足りない。先週もずっと事務所に泊まり込みだったなあ。」ストレス解消には4人で作るバンドの活動、練習は真夜中だという。
 中山さんの次の作品、中華街小公園にできる中国風あずまやは6月中旬に完成する、楽しみである。
(インタビュー 新倉洋子)





目次ページへ戻る

横浜中華街
おいしさネットワーク
御意見御要望は
こちらへ  
お願い致します
©おいしさネットワーク