特集
横濱関帝廟


関帝廟、それは中国人、また海外へ出た華僑華人にとって心の拠り所。
祖先の神々、そしてふるさとと結びつく場。
世界中、華僑の住むところには必ずある関帝廟。日本では、函館・神戸・長崎、そして横浜。
いずれも華僑の長い歴史がある街です。

商売の神様、関帝
 関羽は武将として兵站に精通し、記帳にも長けて、昔の中国社会で使われていた簿記の方法を発明したといわれます。関羽の義を重んじ誠を尽くし約束事を守る精神が商人にとって最も大事であることから、商売の神様としても祭られています。

関聖帝君の生涯
 関帝廟に祭られる主神は関聖帝君です。関聖帝君は、『三国志』で有名な実在の人物、武将の関羽を神格化した名前で「関公」「関帝」などとも呼ばれます。
 関羽は西暦610年ころ、旧暦6月24日に中国の河東郡解良県常平村(現在の山西省解県)に生まれ、幼児から祖父の石盤公の薫陶で「周経と春秋」を学び愛読したそうです。
 関羽は18歳のとき、横暴な豪族を切り捨てて●郡に亡命、やがて劉備と張飛に出会い意気投合します。3人は、たとえ違った年月に生まれても死を同じ日に望む義兄弟の契りを桃園で結び、劉備を長兄に張飛を弟として国家の安全に努力する志を誓い合いました。後漢王朝の滅亡により蜀帝国の建国を画策した3人は、後漢王朝の血筋を引く劉備を蜀帝国の皇帝として擁立、関羽と張飛はそれを補佐し国の基礎固めを行いました。しかし西暦219年、曹操と孫権の連合軍に捕らえられ処刑されます、享年58歳。
 後年劉備の一族は関羽の功績に感謝して廟を建立、これが関帝廟の始まりです。以後、晋・唐・宋・元・明・清の各朝廷も関羽の精忠・守義に感動し、帝位を授け護国の神として祭りました。こうして関帝廟は中国全土に建てられることになります。

横浜関帝廟の今
 華僑を見守って140年、横浜の関帝廟はいつも線香の香りが漂い、参拝の人が絶えることがありません。 日本が開国し、1859年に横浜の港が開かれると同時にこの地に住み始めた中国人は、幕末のころには関帝廟を建て中華街を築いていきます。関帝廟はその後1923年に関東大震災、45年に大空襲で焼失、86年には不審火で廟堂が罹災、と苦難の歴史を刻みます。
 そして90年、横浜中華街のみならず日本国内外の寄付を仰ぎ現在の華麗な4代目が姿を現しました。漢白玉石の欄干、青白石の雲龍御道石、ガラス細工の屋根飾り、『三国志』の物語を彫り込んだ観音石の柱、金箔彩色木彫などなど、中国の工匠が大陸・台湾からはせ参じて中国の伝統建築工芸の粋を駆使して建造しました。中国の明・清時代の南方の廟堂様式を持つこの廟は、困難を乗り越え中国文化を継承する、横浜中華街の街づくりの象徴でもあります。
 2000年4月、神殿内のドーム型八角網組みの天井、および三国志の場面が彫られた青斗石の壁面彫刻が完成、3期12年にわたる工事がここに完成しました。
お参りの仕方
 五本の線香に火をつけ、本殿外の一から五までの香炉に順に線香を供えて身を清める。本殿に入り、中央に関聖帝君、左に地母娘娘、右に観音菩薩、右斜め後ろに福徳正神が祭られているので、順に参拝する。神前にひざまずいて合掌し、住所・氏名・生年月日を告げて、それぞれの神様に願いごとをする。

玉皇上帝(天空に住む神)―国泰平安
関聖帝君―商売繁盛・入試合格・家内安全・学問
地母娘娘―除災・健康
観音菩薩―解難・健康・縁談・安産
福徳正神―金運・財産保全



関帝誕の供え物★
 関帝の誕生日は旧暦6月24日、毎年盛大に祝われる

光明灯
 奉納された一つ一つに氏名・願いごとが書かれる

花火の夏★


春節を迎える★

雪の関帝廟★

写真/薬袋勝代(★)・佐野栄治(★以外)




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