世界の街角で

プーアル茶あれこれ

文と写真/田島知清(民族学研究者)


プーアル茶の産地は中国雲南省の南部にあります。雲南省は今でも少数民族が多いところですが、たとえば、プーアルということばは、チベット・ビルマ(ミャンマー)系の民族のひとつハニ族のことばからきていて、水湾寨と訳されています。川が曲がっているところにある集落という意味です。以前「豆彩19号」で易武をご紹介しましたが、これはタイ語で蛇姫という意味になります。雲南はお茶の木の原産地として有力視されているくらいですから、茶の歴史は古いに違いありません。しかし少数民族は文字を持たなかったり、大きな国を作らなかったためその歴史はうずもれています

 プーアル茶のターニングポイント、転機は3つありました。まず、18世紀の前半、今から270年ほど前に、清の宮廷への献上茶に指定されました。そのころは、南部を支配する役所はプーアルにおかれていたので、プーアル茶と呼ばれるようになりました。北京からみたら雲南南部は辺地もいいところです。そんなところから5か月もかかって運ばれてきた茶というだけでも、珍重されるはずです。一躍スターになり、それをきっかけとして、中国全土に知られるようになったのです。

 清朝が倒れたあとは華僑が飲む茶になりました。今世紀の10年代からです。易武の茶問屋は同慶号と乾利貞宋聘号が両横綱でしたが、その乾利貞は1915年にプーアルのやや南にある思茅(スーマオ)から地の利のよい易武に移ってきたのです。プーアルを広東語読みするとポーレーになります。プーアル茶はポーレー茶になったのです。
 雲南の茶の葉はおおきい。日本の茶とくらべると、おとなと赤んぼうくらいの差があります。摘んだ葉を夕方中華なべで炒めた後、夜揉んで、翌日太陽に当てて干しました。正式な呼び名は晒青毛茶といい、いまでも道ばたで売られています。これを買った茶問屋は、春夏秋の葉を調合し、冬に固形茶にして出荷しました。固めるのは輸送のためです。遠隔地の産品が消費地では、生産地とは違う消費のされかたをする、という典型的な例です。春の新芽を味わうという茶ではなかったのです。
 香港の飲茶(ヤムチャ)食堂で点心をつまみながら観察してみましょう。銘柄を指定しなければ出されるのはポーレーです。しかし好みはさまざまですから水仙という銘柄を飲むひともいます。福建人や潮州(広東省の東のはしにあって福建省に近い)人は鉄観音を愛好します。ふるさとの茶だからです。そうするとポーレーのおもな消費者は、広東省でも西寄り、珠江デルタの出身者ということになります。この人たちの同郷会館は広肇会館という関帝廟です。

 3つめの転機は中華人民共和国が成立したあたりです。はじめのころは事実上鎖国状態でしたからプーアル茶はおもに雲南以外でつくられるようになり、製法も変わって新しいほうが主流になりました。ですからプーアル茶というのはいまでは、産地ブランドというより製法ブランドになっているという面があるのです。固形茶のかたちとしては、円盤のような餅茶と四角形の磚茶というのが古い規格ですが、いまではいろいろなものがあります。

 どんなプーアル茶の値段が高いか、時代の嗜好を見るには東南アジアから香港・台湾の茶館をのぞくといいでしょう。ひとつは長く寝かせたものですし、ひとつは自然志向の茶で、無農薬・無肥料であることや、野生の茶の樹から摘んだ茶をつかっているとうたっています。大衆茶から次第に高級なもの、洗練されたものへ、変化の背景には、東アジアから東南アジアにかけての地域の経済発展があるわけです。
※豆彩19号(2000年2月号)に田島知清「プーアル茶のふるさとは今」を掲載しています。

※写真キャプション(上から順に)
 易武茶山遠望
 プーアルの町の関帝廟
 易武の老茶樹
 茶問屋・乾利貞の初代経営者(1930年代)
 石屏にある茶問屋・同慶号の本宅
 香港の茶行が集めた古いプーアル茶






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