(No.23-2000.10)【曽徳深】


  オリンピック一色である。走る、歩く、泳ぐ、跳ぶ、跳びこむ、投げる、殴る、打つ、撃つ、回転する、ひねる、蹴る、持ち上げる…鍛え上げた体のあらゆる部分を使って競い合う。科学の力を借りて、器具、筋肉や血液までとことん変えて競い合う。選手のきびきびした動き、泣き笑いの顔、南半球から送られてくる画像にくぎ付けになりながら、同時に映し出される観客席のはげしく揺れる国旗、絶叫、アナウンサーの上ずった声と、各国が獲ったメダルの数の発表にふと思う、何が人間をこれまで熱狂させるのか?ナチス・ドイツ下のベルリン・オリンピックの熱狂とどう違うのか?
 「勝利は国民全員のもの、敗北は監督ひとりの責任」、1998年のサッカーワールドカップで敗れたアルゼンチンのパサレラ監督の言葉である。 監督の言葉を、国語試験問題風に入れ替えてみる。その1、「勝利は国民全員のもの、敗北も国民全員の責任」、その2、「勝利は選手のもの、敗北も選手ひとりの責任」。論理的に正しいのは「勝利も敗北も選手に帰する」なのだろうが、現実は監督がもらした言葉通りなのである。一人も観客の無い競技は考えられない、能動的な選手と、受動的な観客の両者が参加して競技が成り立つ、が受動的観客は、選手が訓練を経て得た冷静さがない分だけ、無責任に熱狂しやすい。
「〈国民〉とは、いわば国境を内面化した個人だと言えるが、人が国境を内面化し〈国民〉になるためには、さまざまな装置が必要だった。」(石原千秋)オリンピックは、人間賛歌の祭典と国家意識製造装置の両面性を持っているらしい。


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