中華街でニイハオ!
凛 LIN


何秀娥さん


 横浜山手中華学校、その名の通り中国人子弟の学校である。ここに通う華僑の子ども世代は大半すでに4世、5世。日本で生まれ育ち日常言語は日本語、という生徒が多い。一方、日本の大学や研究機関への留学、中国企業の社員が日本へ赴任、あるいは日本人と結婚、そのほかさまざまな要件で家族を伴って来日しこの地で生活する中国人は急速に増えている。伴われてつい先日中国から来たばかりの生徒たち。そして中国文化を学ぶ日本人生徒。それぞれが中学卒業時には十分な語学と学力を習得し日本の高校に進学していく。
 この学校の中国語教育の中心的役割を担う何秀娥(かしゅうが)さんは、来日して20年になる。1952年上海生まれ、48歳。
 「私の人生の前半は波瀾万丈でしたね。」と笑う。文化大革命の時期に青春を送った「失われた世代」である。かの毛沢東は言った、「学生は農村へ行って社会経験を積まなければならない!」
 学校を繰り上げ卒業した68年、学校単位で「下放」した先は江西省、上海からは汽車で丸1日かかるところであった。ほかの学生が農作業をするなか、何さんは選ばれて小・中一貫教育の学校の先生となる。「赤脚老師(はだしの教師)と呼ばれました。生徒の腹痛や歯痛をハリで治療もする、踊りも教える、にわか仕込みの教師だったんですよ。2学年を1つの教室で教えたこともあります。」
 教師、それは何さんにとって願ってもいないことであった。「先生はなんでも知っている、なんでもできる、と尊敬していましたから、小さいころから先生になりたかったんです。」しかし、教師になる教育を受けていない。師範学校で勉強したいと痛切に思った。
 4年後、念願かなって省都・南昌の江西師範学院へ入学する。専門は中文系(中国語学・文学)。
 学生時代、なんでも経験したいと思い通信教育で「文芸」「英語」を終了、地元のプロの歌舞劇団「洪湖赤衛隊」に参加して舞台に立った。「踊り、歌、これは今、生徒に民族舞踊を教えるのに役立ってますよ。」勉強はもちろんした。夜、消灯時間後は布団の中で懐中電灯の光で勉強、トイレに行ってトイレの灯で勉強、夏・冬の休みも故郷上海へ帰らずに勉強…。卒業後の赴任先は政府が一方的に決めるところ、希望して中・高一貫教育の学校に行った、異例であった。
 「小さいころから先生方には『個性強(負けず嫌い)』とよく言われました、私。何事も後悔しないように、くぎを打ち付けるような気持ちでやってきました。」
 楽しみは編物。上海時代から、映画を見てはヒロインの着ているセーターをすぐに編んで着ていた。
 江西省でこのままずっと穏やかな教師生活…、とはいかなかった。81年来日。「新しい世界で勉強したかった。」と何さんはおっしゃる。
 実はその1年半ほど前から日本人と文通していた。相手はのちにご主人になる福原茂さん。
 1つの家族に華僑の歴史の断面が見える。何さんの両親はそれぞれ日本育ち。日本で知り合い、家庭をもち、40年代まで東京で暮らした。何さんの4人の姉兄は日本生まれである。戦争の混乱で、親戚のいる上海へ移ったのであった。「日本に来て父母の故郷を見たかったんです。親戚が大勢こちらにいますし、不安はなかった。」

 以来20年が過ぎた。この学校と共に歩んだ20年であった。子ども2人は高校生になり子育ても一段落。「教師は天職です。教師は1本のローソクのようなもので、意義ある仕事だと思いますね。」
 中華学校では中学卒業時の中国語学力を中国の大学に編入できる程度(HSK6級)にまで高める語学教育をすすめる。中国語の教科書は、日本の実情に合ったものを中国の語学研究者と共同で編集した。今、日本が国際化する中で中国語が必要とされる場は多くなり、大学入試のセンター試験は中国語で受験できるようになった。
 「学生たちには目標を持って中国語を学び、21世紀の国際的な人材に育ってほしいですね。」
(インタビュー  新倉洋子)
※写真キャプション何秀娥さん
《西廂記》の秋香に扮して(1975年ころ)






目次ページへ戻る

横浜中華街
おいしさネットワーク
御意見御要望は
こちらへ  
お願い致します
©おいしさネットワーク