中華街でニイハオ!
篠原貴之さん

【インタビューアー:曽峰英】

墨(SUMI)



 中華街の朝は、業者の車が行き交い、通勤で足早に急ぐ人たちで始まる。そんな中、この寒空の下で、ひとりぽつんと太新楼の前で折りたたみのイスに座り「善隣門」を描いている人に出会った。後ろからのぞいてみると、一本の毛筆だけを使い、黙々と「善隣門」を描いている。
 街路でよく絵を描いている人を見かけるが、水墨画は初めて。さらに、中国特有の水墨画で、中華街を描いていることに、すごく共鳴した。下書きもなく、その場の見たまま、感じたままを書き留めていく。 中国の伝統的な水墨画の中でも、最も代表的な桂林や蘇州の風景画は、その絵の中に緩やかな川の流れを感じさせ、見る人全てを魅了してきた。とりこになった人々は、本当にこんな場所があるのかと、実際に足を運び、そこで水墨画と寸分変わらぬ風景にびっくりする。

 だが彼の水墨画には、その伝統的な技法プラス、立体的な濃淡があり、被写体に息を吹き込んだかのように存在感を感じさせる。そこに私は新しい中国を感じた。
 感動して思わず話しかけてみると、本来は人物画を描き、風景画はあまり描かないとのこと。今回、横浜や中華街を描きに、わざわざ京都から1週間ほど来ているのだという。とにかく、このまま通りすぎるのは惜しく、それならば、中華街のいい絵をたくさん描いて欲しいと、お節介にも街を案内し、今回のインタビューに至ったわけである。

 彼の名は篠原貴之さん(34歳)。京都市南区に生まれ日吉が丘高西洋画科を経て京都市立芸術大彫刻科卒。好きな画家はゴッホ。1987年から3年間イタリアのミラノ美術学院で彫刻を学んだが、目指していた現代彫刻はすでに多くの人が手がけており、行き詰まりを感じたという。
 「向こうの人に一貫して流れていた美意識が、自分には欠けていた。月並みな言い方をすれば、アイデンティティーが危うい状態に陥ったんです。」
 そんな時、ミラノの本屋で中国水墨画に出会った。
「おもしろかった。東洋人として共鳴しただけでなく、自分を確かめる手段になると思った。」 その後イタリア留学を終え、帰国した篠原さんは水墨画を学ぶ場を求め、意外な事実に直面する。
 「日本の美術系の大学には水墨画も書科もないんです。」
 それならば中国へ行くしかない。1992年中国・北京に本場の水墨画の技術を習得するため留学。 留学先の中央美術学院は日本でいえば東京芸大にあたる美術の名門である。水墨画の技法を学び、学院を拠点にスケッチ旅行をする日々を送っていた。


 2年間の留学中、チベット自治地区、ウイグル自治地区、四川省、雲南省など中国各地を巡り歩き、そこで出会った人々を描いているうちに共通する威厳のようなものを感じたという。

 「文革」の嵐が吹き荒れた中国。伝統的文化は排斥された。
 「たとえ田舎に飛ばされても、『そこでずーっと花のスケッチをしていて、花がうまくなった』と笑うようなたくましさがあるんですね。」
 様々なことがあろうと、淡々と生きている中国人。そのエネルギーが、墨の濃淡、筆の勢いのなかに存在し、見る者をとらえて放さないのだろう。
 「人間に興味があります。色は一切使いません。色を使うとあたたかで見やすくなりますが、その人の内面を感じなくなる。あくまでも人間を直視したい。」
 中国の次は、ボロ車に寝袋を積み、日本中を旅して日本の人間を描くつもりだという。 

※「篠原貴之 個展」1997年5月29日(木)〜6月3日(火)新宿伊勢丹にて



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