中華街でニイハオ!
異(YI)





進藤幸彦さん(インタビューアー曽峰英)

 9年前、中華街に突如現れた輸入雑貨店『チャイハネ』…。一見異質な感じが不思議と中華街の町並みにしっくりくる。中華街へ来た人は、一度は足を運んだはず。私もその異質さになぜか誘われ、つい衝動買いをしてしまう。輸入品のほかに、その国々の手工業者とタイアップし、その土地らしいモチーフや技術、カラーを生かしたデザインをチャイハネスタッフが発掘し、作っているものもある。
 数年後、斜め前に舞踏館が出現、聞いたことのない音楽にのせて、変わったお面をかぶって踊っている。ここの社長って一体どんな人?その謎のベールが今解き明かされる…。
 進藤幸彦57歳。15歳の時に、生まれ育った九州を離れ、埼玉県の浦和の親戚の家へ行く。高校時代に、大学受験のため岩手県の禅寺へ行き、そこで「さなぶり大会」の民俗芸能に感動し魅せられ、民俗学のある東京教育大文学部へ入学。ダンス部に入部し民俗舞踏を研究する。卒業制作では、自作自演の曲をテーープに吹き込み、ドラム缶を四つ並べてたたきながら踊る(なんだか民俗的というより原始的?)ダンスを披露した。
 後に、高校教諭を7年勤め、その間にトルコに1年留学する。「トルコでは子供たちも皆アルバイトをしてお金を稼ぐんですよ。それに給料をもらった時、紙幣を両手で高く掲げてからキスをして、自分のおでこにくっつけ、みんな見てくれと言わんばかり飛び跳ねて喜ぶんです。」それを見て、稼ぐという事はこんなにもすばらしく面白いものなんだと感じたという。「教員をやっている以上、全く想像つかないことだと思いました。」
 また、教諭時代に韓国への修学旅行を提案する。当時、生徒は朝鮮学校との対立が多々あり、偏見をなくそうと、直接向こうへ行って肌で感じることを提案したのだ。学年会議では支持され、韓国へ視察に出かける。が、職員会議では「先例」がないという理由で否決。ここで、高校教師に見切りをつけたのだった。その韓国視察の時、タンジというキムチを入れるつぼに魅せられ日本へ持ち帰った。
 教諭退職後、当てはなかった。とにかく歩き出すこと。そんな時ふと、韓国から持ち帰ったタンジのつぼを見て、売れば商売になるかも、と再度韓国へ。その場で200個注文し、東京のボロ市で売った。このボロ市で商売のイロハを学び、これが貿易の始まりになった。この時、民俗関係の輸入業をやろうと決心する。
 修行のためドイツ系の輸入会社へ就職。タイピングやテレックスを覚える。この時、33歳。その後、中南米、中東の民芸品を扱う輸入会社に就職。その後オイルショックの影響で、景気も悪くなり、輸入業務から在庫一掃のため営業にまわるが、「営業なんかやったことがなかったから、伝票の書き方もわからなかったし、六掛けと四掛けを平気で間違えていたんですよ。(笑)」その後、輸入民芸品の卸専門の商売を始め、1年後に中華街に店を出すこととなった。 しかし、なぜ中華街に店を構えようと思ったのか。
 「昔、南門通りで横浜どんたくをやっている時に、とにかくピンときたんですよ。この通りはシルクロードの商品を扱うの(インタビュー 曽峰英)にいいなって、構想としても、いずれはシルクロードの雰囲気がある町になればいいなと感じていたんです。」その思いは実現し今日に至っている。
 子供の教育も人とはちょっと違う。一人は中国へ、一人はインドの高校のアメリカンスクールへ留学。さらに、子供たちの成人式は15歳でやるのが恒例で、進藤式成人式は、その子の誕生日に食事会を開き、自分の取り引き業者(インド、トルコ、中国などの人たちを含め)を招待し、彼らの15歳の時の話をしてもらうという。一風変わった成人式だ。
 この紙面では伝えきれないほど本当に奥が深い人物。チャイハネへ行けば、進藤さんの民俗、民芸にかける思いが伝わるはず…。ぜひ、足を運んでみてください。



 「異質な伝統や異なったモチーフ、思いがけない素材や技術を駆使した世界の民芸品は出会うこと自体、面白い。更に、民芸を生み出す民俗、フォークロアの中に少しでも入って行けると、もっともっと面白い。そこには、私達の現代の生活を問い直す何かがある。世界を見ているつもりが、私自身を、日本人を見直していることが意外に多い。」
進藤幸彦:著「フォークロア世界への旅」より



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