世界の街角で
ベトナムの出会いを味わえば、あなたも病みつき。
−−ベトナム紀行(その1)−−
七七子

 2年前の12月、ベトナムへ行った。正直言って初めは乗り気ではなかった。ベトナムといえば「ベトナム戦争」が脳裏をかすめ、さらに映画「プラトーン」のワンシーンがちらつき、連鎖的に「怖い」という感覚の後に、なぜか胸の痛みが残る。私はあまり気の進まないまま日本を発った。だが、帰国後の私はだれにでもベトナム旅行を薦め、ベトナム観光推進事業部でもあればきっと感謝されるに違いない…と自負している。

 タイ経由でベトナムの首都ハノイへ入る。「暑い」と予想していた私は、飛行機の中でTシャツに着替えていた。空港へ降り立つと、その予想は見事に裏切られ、気温は13度。うぅ…寒い、…この時、日本と同じように四季があることを知った。ハノイは北部にあり、この時期寒いのは当り前なのだ。

 古い空港の建物内に五台並んだ入国審査には1人か2人並んでいるだけ。審査官にパスポートを見せると、私が中国人だという事に相手は不審な様子、なにやら仲間とベトナム語でブツブツ言いはじめた。

 「やだな…ビザに問題でもあったのかな…別に悪い事してないし…」としばらく自問自答を繰り返していると突然、「ニイハオ!」とニコニコしている。私もつられて「ニイハオ!」と返すと、やたらとうれしそうである。な〜んだそういうことか、嫌みのないその笑顔はこっちまでうれしくなる。気を取り直した私は最初の戦争イメージはさておき、このベトナムの旅を満喫しようと心に決めたのだった…。

 ハノイの空港からホテルまでの道のりは、のどかで、見渡すかぎり広大な田園風景が広がり、自然な大地がそのままある。ぽつんぽつんと農家があるそこには、牛、豚、鶏、アヒル、犬、山羊と家畜のオンパレード。だがここも外資系企業が工場やショッピングセンター、ビルなどを建てる予定だというから悲しくなる。

 さらに町へと入っていく。町並みは昔の中国の雰囲気と、時代背景を思わせるフランスの建物がうまく調和している。放射線状にのびた街路は美しい並木に覆われ、プチ・パリといった趣をも感じさせる。一方では1000年の歴史を持つ古都にふさわしく由緒ある寺も多い。時がゆっくりと流れるこの街は、全体的に落ち着いた感じがあり、街行く人々の表情も穏やかである。不思議と懐かしい感じがするところなのだ。

 一方、南のホーチミンはというと、以前首都だった時の面影を残し、活気に満ちあふれ、発展のスピードもハノイよりも速い。物価もハノイが一とすればホーチミンは10倍の値段を取り、街行く人々を眺めていれば「金が動くようになった」のがはっきりとわかる。

 しかし依然、インフレの影響で貧富の差は激しく、住居はボロ屋か豪勢な一軒家、昔ながらの笠に天秤棒を担ぐおばあさんとすれちがうビシッとしたスーツに身を包む女性。そして赤ちゃんを抱えた物ごいの女性の横を闊歩するツーリスト達(私もその内の一人に過ぎないかもしれない)。戦争で失い、遅れてしまった何かを取り戻そうとするそのエネルギーがアンバランスに吹き出している、そんな感じさえする。

 私はホーチミン滞在中、ある物ごいの子供達に、忘れかけていた大切な感覚を呼び起こされた。裸足でいかにもという格好をしている子供に何かしてあげたいと思うのが常だが、既にガイドさんから「絶対にお金をあげないでください」と注意があった。

 しかし子供を前に、その度に拒否反応を示し、鬼のようにはしてられない。私はスーパーに行き、棒付きのあめ三十個入りのパックを買い、いつでも子供達にあげれるようにとバッグの中に入れて観光地巡りをした。行く先々で物ごいの子供達にあめをあげると、どの子も満面の笑みを浮かべて飛び跳ねて喜ぶ。発展途上国ベトナムに必死について生きていく手段として、物ごいを選択せざるを得ないという現実の中で、その素直で汚れのない本物の笑顔に、小さな感動を受けたのだった。

 今の日本ではどうだろう、例えば自転車をあげると言う。今時の子供は、まず「うれしい」とか「ありがとう」とかそんな言葉は無いに等しい。何かといえば「何のメーカー?」「機種は何?」と聞き、しまいには自分が気に入らないと「じゃ、いらない」ととどめを刺される。一筋縄ではいかないのだ。先進国であるための代償として、失ったものは大きいのではないだろうか…。

 こんな今の日本のご時世の中、ベトナムの子供達は忘れかけていた大切な何かを与えてくれたのであった。ベトナムがどんどんと発展していく中、「今を生きる」ための現実と、「夢を見る」未来が交差するこの子供達も、今後のベトナムを担っていくのであろう…。この発展と共にベトナムの良き伝統と礼儀、なんといってもその本物の笑顔は発展の代償として失わないで欲しいと願う…。



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