中華街でニイハオ!
縁(YUKARI)



徐 秀 蘭さん(インタビューアー曽峰英)

 中華街の大通りから一本横道に入ると、お粥屋「安記」がある。華僑の朝の台所として、昔から活躍してきた店の一つである。私も、物心ついた頃から祖母に連れられよく通った。

 私の知る限り、店の内装、外装はほとんど変わっていない。それもそのはず、椅子のカバーや壁のクロスは30年前に換えたっきりであるから、その当時、まだ生まれてない私にとっては何も変わらない「安記」なのだ。安記のお粥メニューには、骨なしの鶏粥と骨付きの鶏粥がある。その昔、私は骨なしの鶏粥が好きで注文すると、祖母は「骨なしの鶏はだめだよ、鶏は骨付きがおいしいんだから」と幼稚園児の私によく言っていた。すると安記のおばあちゃんも「そうよ、鶏は骨が付いているところがおいしいのよ」と、自分の食べたいものを食べれなかった記憶が残る。その反動で私はいまだに骨なしの鶏粥を食べ続けているのかもしれない…。鶏でも魚でも骨の周りに付いた肉が一番おいしいのだと、祖母に教えられた昔の記憶が、安記に来るとよみがえる。

 安記のおばあちゃん、徐秀蘭(ジョシュウラン)。1919年(大正8年)横浜で生まれる。四歳の時関東大震災にみまわれ、その時お姉さんが他界。住むところがなく横浜から神戸へと移った。神戸の中華街にある関帝廟(中国のお寺)でゴザを敷き、寝ていたことが記憶に残っているという。当時、三島で中華料理屋「来来軒」を経営していた父は、家族の安否を気遣い3日かけて線路づたいに歩いて迎えに来た。後に7年間、家族は三島で生活するが、順調かと思われた「来来軒」は九一八事変(満州事変)の影響で、日本人の感情悪化が原因となり客足は減少。店を閉めて再度横浜に戻った。

 1932年(昭和7年)横浜中華街でお粥屋「安記」を開店。客は船員が多かったため朝5時に店を開け、夜中の1時からの仕込みを徐さんは手伝い、この頃から揚げパンを揚げている。当時のお粥の値段

 姉が他界してから兄弟の中で一番年上になった徐さんは、兄弟の面倒を見るため、店の手伝いのほか綿めん工場に勤めたり、チャイナ服の仕立て屋で布製の船員服のボタンを作り、お小遣いを稼いでいた。徐々にチャイナ服の仕立てを習得し、後に東京の高島屋でチャイナ服の注文を受けては仕立て、私の祖母も仕立ててもらっていた。18歳になると、友達とグループで旅行やピクニックに行くようになる。その友達がクリスチャンだったので、中華街にある「横浜華僑基督教会」へ行き、賛美歌を歌うようになったとか。当時は広東人が多く、牧師も広東人だったため全て広東語で行われ、賛美歌も広東語だったという。

 そして苦労を重ねてきた徐さんにも楽しみができる。毎年お正月になると浅草へお参りに行き、その帰りに必ず宝塚劇場へ寄って歌舞伎やエノケンを見に行った事はなによりも楽しかったという。25歳で見合い結婚。結婚後すぐに空襲にみまわれ、戦後の食糧難時代には電車で二俣川の農家まで、配給の糸や足袋を持っていってお米に換えてもらい、お粥屋を続けたのだった。後に一男一女をもうけ、今日に至っている。

 チャイニーズというと麻雀。当時の中華街に住む中国人達は、盛んに麻雀をやっていたが、麻雀をやらずに浅草へ遊びに行き、劇場通いをしていた徐さんはとてもモダンでしゃれている。今は甥(おい)に揚げパンの生地作りを伝授し、徐さんは朝7時前に店に来てそれを揚げている。まだまだ現役でがんばる安記のおばあちゃん。いつも飲料水機の横に座り、その冷たい水を飲みながら、揚げたての揚げパンを食べている光景は、もうおなじみのスタイル。そこでお客さんといろんなお話をするのが楽しみの一つとか…。



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