中華街でニイハオ!
旺(OU)


凌蔭堂さん(インタビューアー曽峰英)


 中華街でもちょっとした有名人、凌蔭堂(リョウインドウ)さん

 1925年生現在72歳。なにを隠そう豆彩2月号の4面、5面の中で紹介した中華街のうそのような本当の話の、「山下公園の海で泳ぐおじさん」とは凌さんのことである。記事としてはほんの1行程度のものだったが注目度は高かった。そんなバカな、と信じない人が多かったのである。

 5年前、夏真っ盛りの時期「人間も暑いんだから犬も暑いだろうな」と、愛犬と山下公園まで散歩に行き、カップルが見つめるあの海で行水がてら2人?泳いだのがきっかけ。のちに3年間にわたり5月〜11月、雨天も毎日のように通った。それがうわさとなり、新聞やテレビに取り上げられるようになった。

 それを知った視聴者は自分のペットも泳がせたいと近県から自分のペットを連れてきては凌さんと泳がせたとか、それも1匹から始まり最後には70匹に膨れ上がり、その時泳ぎを共にした犬達の名簿を今も残してある。きっとデートで来ていたカップル達には一生忘れることができない思い出となったことであろう。今では健康を気づかって凌さんも山下公園では泳いでないが、スイミングプールに毎週4〜5日は通い、最長で1日なんと1500メートルを元気に泳いでいるのだ。

 がしかしこれで驚いてはいけない。凌家には宋代にまで遡る家系図が存在し、横浜開港資料館へ資料が寄贈されている。杭州から広東省に移った凌一族は元、明、清と存続し、現在も同地には子孫が暮らしている。

 明治時代祖父(凌伯 )が日本へ渡来、現在の重慶飯店本店場所で1896年「廣信祥」を設立。線香屋から始まり酒屋、中国米やタイ米を主とした米屋、土産畜産、両替商も行い商売色豊かに発展する。

 その後神戸、香港と祖父の弟たちが会社を興し、商品の原産地、加工、販売とそれぞれに分担された貿易活動を一族で盛んに営んでいた。その後関東大震災に見まわれ、父の先妻は倒れてきた金庫に手を挟まれ焼死。深い悲しみに父(凌国忠)は現在の場所へ住居を移転し、後に後妻(霍善坤)つまり凌さんの母親と結婚した。母親は広州の実家の玄関先に台を置き、西洋たばこを並べただけなのに「南洋煙草公司」といって販売していたという。1937年、日中戦争勃発後、父は香港へ帰国する。

 「満州事変勃発時は6歳でね半年間香港へ行ったんだ。帰国後は中華公立学校(現在の中華学院場所にあった)、16歳の時にはセント・ジョセフに3年通った。アメリカ人の先生達は敵性国人として交換船で送還され、残った先生はみんなフランス人だったよ。」中退後東京獣医学校に入学、留学生は分野ごとにまとめられ、農林系である凌さんは鳥取へ行った。終戦はここで迎えている。

 戦後丸の内の中央信託局に勤め、その後新光貿易に入社。退社後凌さんは再び中華街の同地で陶磁器を扱う「廣信祥」を1972年に再建し今日に至っている。

 どこで会っても元気にシャキシャキと歩き、いつも明るい凌さん。72歳でもその元気の良さは、やはり日々水泳で鍛えられた身体があるからだろう。がしかし昨年の夏、のどに悪性リンパ腫を発見、半年間に6回の抗ガン剤を打った。強力な薬ゆえ心臓など臓器への影響、副作用が心配された、が入院中も運動はやめなかった、病院の階段を1階から11階まで毎日何度もストロークしながら往復し続けた。その後、信じられないことにCT報告書ではガンの影は一切なく細胞は消え、副作用も髪の毛が抜けただけだったという。

 私は彼を老年若人と呼んでいるが、彼曰く「おれは伝説の人間」と豪語し、インタビュー終了後も「おれは今日も生きているぞ」と言い続けていた。



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