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軌(KI)


渡辺 朗さんさん(インタビューアー曽峰英)


筆を手にする時といえば冠婚葬祭のあて名書きや芳名帳に記入するとき、筆ペンを手にする程度で、習い事でお習字をしてない限り筆を持つ機会は全くといっていいほどない。

  渡辺朗(書家名/高雲)1922年4月22日生76歳、横浜市中区賑わい町(現在の伊勢佐木町4丁目辺り)に生まれる。神奈川県庁に30年間勤め、退職後お習字の先生をしながら注文に応じて看板や掛け軸などの書を書いている。現在数人のお弟子さんを抱え、長い人では18、9年通っているお弟子さんもいるとか。 「うぁ、筆がいっぱいある。それにこの字、すごいですね。」と初めて目にする様々な筆、アルバムに残された数々の書を珍しそうに眺める私に、「芸術は個性でしょ?お習字でいうと自運、自ずから運ぶ、これができなきゃだめなんです。」

 書道に出会ったのは3歳の時。家は三代続く料理屋で曾祖父は千葉の我孫子で水戸の殿様が江戸に上る際泊まっていたという脇本陣割烹旅館「さくら屋」を営んでいた。しかし時代と共にさびれ、一家は浅草から横浜関外の賑わい町に、そこで祖父があんこう鍋屋を始めた。お習字好きの父は仕事が終わって布団につくと、決まってうつ伏せになり、枕元に硯を置いて書いていたという。これを何十年と続けるうちに千字文を暗記、つづり文字を習得、国文国学は大得意。料理屋だからという理由で学校に行かせてもらえなかった父は伊勢山皇大神宮に行って和歌俳句を習い、きまって論語で説教されたという。

 後に30年の大恐慌で経営は行き詰まり、夜逃げ同然で家を出た。のち松影町に落ち着く。お習字をはじめはばかにしていた道楽仲間に教えたのがきっかけで、評判を呼び、野毛坂にある薬屋の稲垣栄造商店へ教えに行くようになる。そこのおかみさんのご好意で永楽町の借家の一室で本格的にお習字教室を始めた。軌道に乗り、ある時期は一週間にお手本2000枚書くなど、すごい勢いではやった。「12月になるとおかみさんがお歳暮くれるんですよ、先生お世話になりましたって。開けると120円入ってる、1年間の家賃分がまるまる入ってるんです、それ以外に月謝ももらっていてね、で親父はよく稲垣さんのおかげでおまえは学校行けてるんだぞって言ってたよ。」
1943年ころ (後列右から2人目)

小中高を経て明治大学を2年半で短期卒業、1年後兵隊検査を受けるが持病の痔が功を奏し兵隊に行かずにすんだが、決まっていた勤め先、横山工業はアメリカの爆撃で工場は吹っ飛び、勤めそこなった。そして以前家族共々世話になった稲垣商店で一年間小僧を務める。「人生の中であんなに難しい商売したことない。小僧って仕事があんなに大変だとは思わなかった。」棚に商品が並んでないから注文があるたび裏から持ってくる。値段が付いてないから全部覚え、問屋だから暗号も飛び交う。1ダース分のアルコールの瓶を持ちやすいように荒縄で縛る。「荒縄だって手で切っちゃう、ハサミなんか使ってたら怒られたよ。」

 小僧を経て富士電機製造株式会社の労務課に登用されるが、44年10月、召集でシベリアへ行き、抑留された。「お習字やってて助かったんですよ。おまえ字がうまいから絵も描けるだろって。絵なんか書いたことないのに書かされたんですよ。」当時ロシアでは室内を飾る装飾品はいっさいなく、絵画は高級品とされ、買えば古参課長の給料ひと月分に値したという。こうして4年半の捕虜生活の九割は絵を描いて経てきた。49年12月、ナホトカから信洋丸に乗って日本へ帰還。「船の中の昼飯がさ、たくあんとみそ汁とご飯なんだよ、これが日本の味だって、モリモリ食べた。で甲板に出て皿を各自洗うんだけど、そこにたわしが置いてあんだよ、もうみんなでたわしだたわしだって顔こすっちゃったよ、うれしくって。」

   帰還後は次号に続く…。



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