夕涼み

【陸汝富(北京放送)】


イラスト/浅山友貴





 夕食が済んだころ、北京の街角や団地の緑地地帯は、夕涼みを楽しむ人々でにぎわう。クーラーが相当普及した今も依然として衰えることを知らない。これはすでに、真夏の北京の風物詩にもなっている。その時の姿も、うちわを手に、男は半ズボンにランニング、女性は袖なしのワンピースといった家にいるときの装いで、飾り気一つない。これが、北京の夕涼みの一群の特徴である。

 某機関の局長であろうが平であろうが、また清掃夫であろうと、互いに見知らぬ人でもすぐ自然となじみ、一緒になって世間話に花を咲かせる。不思議と言えば不思議だがなんら隔たりを感じず、身の回りの話から、職場の話、経済・政治の話から、某国家指導者の評価、政府の行為、政策の賛否と幅広い話題に及ぶ。

 正直言ってその話の内容は新聞には載っていない私の知らないことがほとんどである。反右派闘争や「文革」という政治運動を経験してきた私には、こうした議論に耳を傾けていると、それがとても新鮮に感じられるとともに、心和らぐ思いがしてならない。世間は確かに変わった、よい意味で変わっているのだとつくづく感じる。だから、それだけ夕涼みが楽しくなるのだ。

 北京市民の夕涼みには緑を求めての散策がある。中国に「飯後百歩走、活到九十九」(食後の百歩、九十九まで生きる)、「飯後百歩走、気死老薬舗」(食後の百歩、老舗の薬局怒らせる)という俗語がある。食後の散歩は昔から健康法の一つであったのだ。これが今でも生かされていて、昼間はもの静かな公園も、夜の七時ころから散策にやって来る人でにぎわう。ここを訪れるのはほとんど私たちのような年配の夫婦か、子供連れの中年夫婦である。無邪気な子供が芝生の上を転がって遊んでいる、芝生の香りが子供を誘うのであろう。

 北京では年配の夫婦が相手を互いに「老伴(ラウバン)」と言って呼びあう、老いて伴うという意味だ。文字の国だけあってなかなかうまいことを言うといつも感心している。思うに、こんなふうに夕涼みに夫婦で公園を散歩することなどこれまでにあっただろうか、いや、それどころではなかった。無我夢中で突っ走りそんな余裕もなかったのだ。老いてようやく相伴って散歩できるようになったのだ。まさに「老伴」ではあるまいか。

 私の住む住宅からものの五分もしないところに「西便門」という小さな公園がある。昔の城壁の一角が壊されずに残り、これに手を加え、さらにその周囲に木を植え公園にしたのだ。今では北京城の昔の面影をとどめながら、市民の憩いの場となっている。ここ一帯は、交差して走る道路に囲まれ、ちょうど砂漠の中のオアシスのように、ここだけが緑に覆われている。


 私が「老伴」と二人でよく夕涼みに、自然の風を求めて散策するのがここである。



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