中華街でニイハオ!
軌(KI)


渡辺 朗さんさん(インタビューアー曽峰英)


シベリア抑留から4年2ヶ月、日本へやっと帰還した渡辺先生は仕事を探した。だが、シベリア帰りは民間の企業ではなかなか雇い入れてくれず、唯一受け入れていたのは役所だけだった。試験を受け、のち県庁へ30年間勤めることとなる。

 「最初人事課にいたんですよ。昔っから厳しいところでね、厳しいけど言い換えれば礼儀正しかったですね。」 その後、難しい仕事といわれていた恩給の仕事に、15年間携わった。いまだに明治時代の法律が息づき、恩給法精義や昔の六法全書、参考書などを読んで計算していかなくてはならない。戦後は毎年ベースアップをしていたため恩給の再計算をし、さらにそれまでのと差し替えるため、6000人に封書を送るという作業があった。そのあて名書きのアルバイトに横浜市大の生徒を募集した。

 7〜8人来たその中に中国人女学生が一人いた。彼女は劉燕雪さん。「まじめな子でね、とにかく一生懸命仕事すんだよ。」劉さんに好印象を受け、翌年直々にアルバイトを頼むと、彼女は友達を六人紹介した。「で、来たのがさ、ほとんど男ばっか六人来ちゃって。悪いのばっかり。」その中には、現在の菜香グループ会長曽徳成がいた。

 「アイツら仕事前に腹へったなって、中華街でヤウチャッカイやごまだんご買ってきて食ってんの。でおれがグレーのズボンをはいてたら、そのズボンダサイから新しいの買えよって、おれ安月給なのにさ、野沢屋行って買わされちゃって、家に帰って怒られちゃったよ。アセン(曽徳成)に麻雀も教わったよ、アセンはおれの麻雀の先生だよ。」 彼らの1ヶ月のバイトが終わった。そのころ、安月給でみんな弁当持ちだったのが、次第におもてで昼食を取るようになっていた。中華街へくり出したそんな時、後ろからだれかが呼ぶ声がする。振り向いてみると、なんとそこにアセンがいた。3年ぶりの再会だった。「ここおれん家だから食っていけよって。珠江飯店のソバと肉まんはうまかったよ。で、みんな誘ってよく行ったもんだよ。」それが珠江飯店との出会いだったという。

30年勤めた県庁を1980年に退職。以後書道の研究をし、依頼により看板などを手がける。書くときにはよく使い込んだ、自分の腕のクセがついた筆を使う。他人のクセがついた筆を使って書いてもうまく書けない、だからお弟子さんには貸さないのだと言う。 「「弘法筆を選ばず」、もし弘法大師が新しい筆で書いていたらあんなうまい字は書けないだろうって、うちの親父言ってたよ。新しい筆よりも使い込んで汚くなった筆は一番書きやすくてうまい字が書けるんですよ。」 先生はなに流なんですか?の質問に、流派ってのはあってないようなものだと渡辺先生は言う。

「芸術ってのは自分の個性ですよ、だからぼくの個性を出したものは渡辺流ですよ、個性を出したものはだれも真似できない。自分の個性は磨かなきゃダメ、しいて言うならばそれに行き着くまでの基礎練習を何流でやるかなんです。」 「珠江飯店」や「菜香」「菜香菜」の看板を書いて以来、中華街の店舗の看板を手がけるようになる。最近では8月11日にオープンした「中華街停車場」の看板も渡辺さんの書である。 個性、オリジナリティー、創作、これらは全てデザインの原点である。その中でも文字は究極のデザインではないだろうか。「これは良い字だ」と深く心を動かされることもあるし、また、いろんな国を旅しても最初に目に飛び込んでくるのは看板の文字である。それは、その時々に様々な情報を得るために本能が働くからであろう。人が文字から受ける印象、感性、意味、情報などを考えると、文字そのものが人に伝える力は強大だとあらためて感じる。「感性時代」と言われる今日、人々の感性に直接訴えるために、書はある種、感性豊かなプレゼンテーション技術ではないだろうか。

1966年ころ 、シベリア時代の友と(左)

     



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