世界の街角で

敦煌再訪

絵と文 【 三好 道 】


12年前に仕事の途中立ち寄った敦煌に、昨年9月、莫高窟、西千仏洞、楡林窟の壁画を専門に見るというツアーのメンバーとして再訪した。前回の経験を踏まえ1・5ボルトの電池が六個入るライトを用意して出かけた。

 敦煌市街や莫高窟周辺は、すっかり変わりきれいになっていた。特に鳴砂山には入場門ができ、自由な行き来ができなくなっていた。月牙泉は濃緑色によどみ、息絶え絶えだった。泉のわきにコンクリートの楼閣が建てられ泉を上から臨むようになっていた。登ってみたがすり鉢の底のような場所だけに風は動かずムッとし立っているのがやっとだった。

一方莫高窟は国家の重点文物保護単位であるだけでなく、世界遺産にも指定されているだけあって保存状態も以前よりよく、一般料金で30窟、別料金を払えば12の特別窟が参観できるようになっていた。説明員も敦煌研究所の専門家が当たり、素人の我々にも理解できるようにと配慮された内容だった。洞窟が492、壁画が四4500平方メートルあるということである。公開されているものだけでも1日にせいぜい20窟程度、急いで見ても3日はかかる。

 敦煌莫高窟の宗教芸術の特徴は壁画、彩色塑像それに諸分野におよぶ膨大な文書史料にある。

 時間の関係もあり自分の興味のある壁画を中心に見て回った。4世紀末の北涼時代から14世紀の元の時代までのおよそ1000年の生きた仏教美術館には尊像図、説話図、神話、経典、仏教史跡画、供養者像、装飾意匠などが描かれている。

 描かれている人物はありとあらゆる階層で構成され、その中には、国内の少数民族をはじめ外国人も含まれている。壁面いっぱいに彼らの日常生活が連環画として色鮮やかに浮かび上がっている。

 とくに注目して見たのは仏や神や人の具体的な生活の有りようだった。盛唐の「法華経変」の中には田園生活を送っている農民が突然の雨で天秤棒を担いで急ぎ帰る姿や畑の隅で食事する家族、牛を使って田を耕す様子などが生き生きと表現されていたり、「諸難救済図」の中には山中を旅する異国の商隊が漢人の山賊に威嚇され、命ごいをしている光景や、人が捕らえられている牢獄の前には当時使用された首かせ、手かせ、足かせなどの刑具が描かれて貴重な資料を提供している。

 時代の変化がハッキリしているものに晩唐時代の「婚嫁図」がある。当時の婚礼は臨時に建てられたテントで行われ、新婦が立って新郎がひざまずいて礼拝している。これは武則天が皇帝になって以来、結婚式を挙げる際、男性がひざまずき、女性はひざまずかないという習俗を反映している。

 供養像の中にある節度使と結婚したホータンの公主などは、ホータンが美しい玉石を産出するところであったせいもあるが、緑色の珠玉を飾った鳳冠をかぶり、髪にかんざしを挿し、顔に花鈿(かでん)を貼っている。これなど当時の宮廷で流行していた貴族女性のファッションだったことがうかがわれる。

 とくに興味深かったのは西夏時代の「玄奘取経図」だ。楡林窟に四幅、東千仏洞に二幅あるという。その中の最古のものは小説「西遊記」より300年余り早く描かれており、絵の中には玄奘が合掌礼拝し、後ろに猿の行者が白馬を引いて立っている。これなど唐僧が経典を求めて旅する話が広く流布されていたことを物語っている。以上はいずれもメインの絵ではなく、大きな壁画の片隅に描かれたものだが、これからもこんな見方で敦煌の石窟めぐりをしたいものだ。

 



目次ページへ戻る

横浜中華街
おいしさネットワーク