中華街でニイハオ!
錬(LEN)


盧栄●さん(インタビューアー曽峰英)


 中華街に駄菓子屋はあったものの、子供のころから甘い物が得意じゃなかった私。好んで食べていたのはごまだんご(煎堆、チントイ)だった。ごまで覆われた表面のこうばしさは、中華を腹いっぱい食べてもこれは別と、口に放り込む人も多いはず。

 そして「ひと口で心温まる家郷の味」とだれもがうなるごまだんごがここ「翠香園」。

 食い意地張った私は、お小遣いを握りしめて店の前を往復し、揚げたての湯気で曇るショーケースを待ちわびたものだった。時として学校帰りに「お帰り、チントイ食べる?」と声をかけてくれる。最近分かったことだが、父の時も  そうだったというから、翠香園親子二代、変わらぬ親心である。

 翠香園社長盧栄●五八歳、愛称エイヨちゃん、東京巣鴨で生まれる。父盧譜章さんは1907年、七人の仲間達(海員閣や謝甜記の先代)と香港経由で来日した。当時15歳である。

 1925年盧譜章さんは、銀座歌舞伎座内に仲間同士で金を出し合い中華料理店「翠香亭」をオープン。翌年、横浜中華街ではじめての中華菓子製造販売を手掛ける「翠香園」を創業。調理器具もない当初、燃料は全て薪、お菓子の型抜きは空き缶を利用し、オーブン代わりに大きな鉄板皿に炭を載せ、天井からつるし、上げ下げして菓子を焼いた。1964年、中華菓子では初の神奈川県指定銘菓になり、全国菓子大博覧会大臣賞などさまざまな栄誉に輝いた。「親父、指定銘菓の看板もらった時うれしくて、爆竹あげてたよ。」 引き臼でもち米を引いて作ったごまだんご、おまんじゅうはイーストを使わず日々の種で発酵させる。もちろん全て手作業、ゆえにおいしい。店内にはその場で食べられるよう腰掛けを置き、お茶を出すなどの細かい気配りと、真面目な味がさらに客を引き寄せたのだった。 小学4年生のころから盧さんは店の出前をしながら、そば打ちを父から教わる。高校時代には、教科書をひもでくくり、肩から下げ、高下駄を履いた蛮カラスタイルで他校とケンカの日々を過ごす。石原裕次郎が日活映画で大活躍していた時代である。高校3年生になるとアイスホッケーに夢中になった。「あのスピード感と格闘技的なところが好きなんですよ。」その後、横浜市立大学商学部経済学科に進学、大学4年間はアイスホッケーにのめりこんだ。在籍中に全国ベスト8入りを果たし、神奈川の賞は総なめ、新聞でもてはやされたそんな時、70歳過ぎた父から「学校とるか?仕事取るか?月謝出しているのはおれだよ」といわれ、卒業を目前に大学中退して家業を手伝うことになった。実はその前に大珍楼の看板娘梁笑英さんと学生結婚している。奥さんは中華学校の同級生、付き合い始めたら、父親がすぐに相手のところに行って話をつけてしまった。盧さんは大学中退であるが、数年前から卒業生名簿に載るようになった、大学の名を全国に広めた功労者ゆえである。

 大通りがすました表顔なら、八百屋、魚屋などが軒を連ねた市場通りは、庶民の素顔が見えるすっぴん通りといえるだろう。この一角に「翠香園」はのれんを掲げ、73年間このかた製法を変えない。 イーストを使わず、家族も一緒になって、奥さんが腱鞘炎になるぐらい、手作業でまんじゅうを作り続ける。20年前に開業した広東料理「翠香園」の食材は社長自ら市場へ行って新鮮な海鮮物を仕入れる。中華街でも指折りの料理店となり、食通たちをとりこにした。

 八年前に店を改築した時、目いっぱい建てれば五階建てのところを四階建てにしたのは、「自分の目が届く範囲だから」という。だが、目の半分は奥さんに負担してもらっているようだ。どんなに近代的になっても、常に現場に目をやりながら、心をこめて中華菓子と中華料理を作る。これが時代を生きてきた老舗の存在であり、今日の中華街を支えてきたひとつの源だと改めて感じる。

1961年ころ、アイスホッケーの仲間と(左端)

     



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