玉乳石随


高橋忠彦(東京学芸大学)

 豆腐は中国の食べ物の中では、比較的新しく、北宋の初めに陶穀の著した『清異録』の「豆腐」の語が、文献の上で最も古いとされる。前漢の淮南王劉安(りゅうあん)が豆腐を発明したという説もあるが、これは明代以降言い出されたようだ。ともあれ宋代に豆腐が普及し、栄養豊富な食材として愛され始めたことは、南宋の文人楊万里の戯文『豆盧(とうろ)子柔伝』に見ることができる。これは、豆盧鮒(豆腐にかけたもの。豆盧とは実在する2字の姓)という架空の人物の伝記の形をとって、豆腐のすべてを描き尽くした作品である。内容をいちいち紹介する余裕はないが、現在の豆腐と全く同じ物が食されていたことが分かる。
 その中で2点、興味深い部分を紹介しよう。まず、豆盧鮒が達磨のもとで修行したという話があり、豆を磨(いしうす)でひいて豆腐を作ることを暗示している。また、豆盧鮒が漢の武帝に仕え、公羊高(くようこう)と魚豢(ぎょかん)という2人の(実在の)学者と同僚になったことを恥ずかしく思ったと述べられる。この2人の名の羊と魚は、古来肉食の代表であり、それに対し、豆腐は早くも精進の代表の食物として位置づけられていることが分かる。達磨に結びつけられるのも精進を暗示したものであろう。
 ところで元の鄭允瑞は、次のような「豆腐」の詩を作っている。
 種豆南山下、霜風老莢鮮。磨 流玉乳、煎煮結清泉。色比土酥浄、香逾石髄堅。味之有余味、玉食勿与伝。 大意:南山の麓に豆を植え、秋の末に豆のさやが実る。臼でひくと玉乳のようになり、煮て固めて清らかな水にさらす。色は大根よりも白く、香りは石髄よりも強い。余韻がある豆腐の味は、美食に努める輩には教えてはならない。
 豆腐や豆乳が石髄や玉乳と呼ばれているが、これは仙薬のイメージを持った鍾乳石のことである。仙薬を練ったという劉安が、豆腐に結びつけられたのは、ただの豆から白玉のごとき豆腐を作り出す技に驚きが感じられた結果かもしれない。
(イラスト浅山友貴)

目次ページへ戻る

横浜中華街
おいしさネットワーク