西施之乳


高橋忠彦(東京学芸大学)

 魚の名前には、中国と日本で漢字の意味に違いがあるものが多い。「鮎」は日本ではアユだが、漢字の元の意味はナマズである。フグを意味する「鮭」も日本ではサケの意に用い、日本でフグと読んだ「鰒」は、元来アワビのことであり、なかなか複雑である。
 フグを表す漢字は、「鮭」の他「AB」「B」などがあり、「河豚」も用いられた。有名な文字学者王念孫は、「鮭」は「恚」(怒ること)、「B」は「訶」(怒鳴ること)に通じ、どちらもフグが怒ったようにふくれることが、言葉の起源になったとする。現代中国ではこれらの難しい字は用いられず、「B」を使うが、これは「河豚」の「豚」を書き換えた字である。
 ところで、日本では冬の美味として知られるフグも、中華料理の世界では、さほど目立った存在ではない。しかし、フグは古く宋代あたりから、美味と猛毒をふたつながら持つ魚として、詩文の中で目立ってきた。北宋の梅堯臣の詩「范饒州の坐中にて客河豚魚を食するを語る」には、次のようにある。
 春洲生荻芽、春岸飛楊花。河豚当是時、貴不数魚蝦。其状已可怪、其毒亦莫加。忿腹若封豕、怒目猶呉蛙。庖煎苟失所、入喉為EF。
 大意:春になって川の中州の蘆に芽が生じ、岸に柳Gが飛ぶ頃、河豚は川を遡り、旬を迎え、他の魚介類は物の数ではなくなる。河豚は形も奇妙だが、毒は最も激しい。怒ると大豚のように腹をふくらませ、蛙のように目を見開く。調理法が適切でないと、口に利剣を飲み込んだのと同じ結果になる。
 このように、春先に川を遡ってくる旬の河豚は、蘆の芽と共に料理され、珍重された。元の貢師泰が、「河豚を記す」という文章の中で詳しく述べているところによれば、河豚は羮(煮物)が旨いが、鱠(刺身)もH(干物)もよく、毒の強い肝も、薄切りにしてさらして食べるという。同文に「乙腴白如脂、俗号西施乳(そのはらわたは脂のように白く、俗に「西施(春秋時代の美女)の乳」と名付ける)」とあるのは、恐らく白子のことであろう。宋元の人々は、今の日本人と同じように、河豚を味わい尽くしていたのである。
(イラスト浅山友貴)

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