ただいま研究中
明治の横浜税関長の食べた中国料理は?(その2へ)



清国公使館のメニュー/横浜開港資料館蔵


 1902年(明治35年)3月3日、東京の清国公使館に、水上浩躬(ひろみ)横浜税関長が招待されました。その時のメニューが横浜市にある横浜開港資料館に残されています。

 縦20センチ、横25センチほどの変色したこのメニュー、「光緒28年正月24日」(1902年、明治35年3月3日)の日付の、漢字と英語で書かれたこのメニューをながめていると、いろいろな疑問が浮かびます。
 横浜税関長の水上浩躬とはどういう人?いったい宴会の主催者は?場所は?どのような内容の宴会だったの?メニューを見て、これどういう料理?
 横浜開港資料館調査研究員の伊藤泉美さんの手を借りて、いくつかのことが明らかになりました。横浜開港資料館にある、このメニューを含む「水上浩躬関係文書」208点は、東京古典会主催の七夕古典会の目録を見て1993年に購入したものだそうです。 さて、水上浩躬税関長という人は? 文書には「長崎県書記官」の辞令などに交じって、水上浩躬さんが招待された晩餐会のメニューもいくつか含まれていて、この清国のメニューはそのひとつです。このほかに水上浩躬さん自筆の回顧録もあり、人物像はかなりはっきりするようです。それによると、

  1861年 熊本市に生まれる。
  1888年 東京帝国大学法科大学卒業、法制局参事官試補就任
  1890年 衆議院書記官就任
  1893年 長崎県書記官就任
  1897年 神戸税関長兼大阪税関長就任
  1898年 大越成徳氏の後任として、横浜税関長就任
  1905年 神戸市長就任、従四位勲三等を授けられる
  1910年 市長辞任

 略歴にはここまで記載され、回顧録はこの年に書かれています。
 この宴会の主催者は?「Imp .Chinese Legation」とありますから、主催は清国の駐日公使館。公使館は今の千代田区永田町二丁目にあったといいます。永田町は明治の初めより行政機関が集中、二丁目には首相官邸などがありました。当時の公使は蔡鈞(さいきん)。もと蘇松太道であった蔡鈞は1901年、李成鐸(りせいたく)の後任として赴任し、1903年に職を解かれています。
 1902年の「JAPAN DIRECTORY」(住所氏名録)には、公使館の陣容として、ほかに書記官4名、英語・日本語の通訳3名の名が記されていますが、料理人などの使用人の名はありません。料理人がどこの出身なのかということは、中国料理の場合、料理の特徴を知る上でヒントになるのですが、これ以上は今のところ分かりません。この宴会はどういうものだったのか、ほかの招待客は?正月のお祝い?…不明です。
 このメニューに載った中国料理はどういうものであったか?
 それを明らかにして、みなさまに味わっていただこうと考えています。プロジェクトチームを結成して、スタッフ一同はりきって研究中です。



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