ただいま研究中(明治時代の中国料理その2)(その3へ)
明治の横浜税関長の食べた中国料理は?


 ここに
一枚の古く変色したメニューがあります。1902年(明治35年)3月3日、東京の清国公使館に、水上浩躬(ひろみ)横浜税関長が招待された際、供された食事のメニュー……。
ふとしたきっかけで発見したこのメニューを現代に再現させ「春節感謝まつり」当選者の方々に賞味していただくという、楽しさいっぱい、夢いっぱい、そしておなかもいっぱいになるプロジェクトが進行中であることは先号でお知らせしたとおりであります。
 当時の資料も少なく、その時代の背景などから想像するより他にない所もありますが、いくつか確認できる事柄として以下の点が挙げられました。
 一、品数が多い
  何しろ18品です。全ての料理の量が少なめとしても、相当食べごたえがありそう。
 二、西洋風の料理が含まれている
  たとえば生菜魚(フィッシュサラダ)・●利牛肉(牛ヒレステーキ?)・雀肉凍(フォアグラのテリーヌ)……「清洋折衷」といった所?
三、北京宮廷料理の流れをくんでいる
  清代の満漢全席や宮廷料理には、燕窩(えんか/つばめの巣)は欠かせないものであり、それが供されたのち必ず白木耳(銀耳、白きくらげ)が登場しています。これは白木耳が燕窩に付着しているかもしれない細かい羽毛などをきれいに消化すると言い伝えられていたためだそうです。
 その科学的根拠はともかく、他の料理の材料の豊富さ、品数の多さからも宮廷料理をほうふつさせる点が多い(あくまで推測です)。すなわち、当時の清国の正餐=宮廷料理に当時の日本の上流社会好みの西洋料理を盛り込み、日本人にはまだなじみの薄かった宮廷料理を食べやすく工夫したのかも……?などと思いをめぐらせつつ、一同がんばってメニューを完成させていきます!

 1902年は「山下町」が誕生して3年目の年にあたる。現在では「山下公園」の名とともに親しまれている「山下町」という地名が誕生したのは1899年7月のことである。それまでこの一帯は「横浜居留地」と呼ばれ、外国人が暮らし商売を営む特別の地域として、原則的に日本人の居住や営業が禁じられている場所であった。1899年にこれまでの諸外国との不平等条約が改正されて居留地がなくなり、横浜居留地も「山下町」として新しく歩みはじめたのである。

 横浜は幕末以来貿易港として栄え、20世紀初頭では羽二重や絹ハンカチーフなどを欧米諸国やインドに輸出し、また鉄鋼類、原料綿、砂糖など様々な品物を世界各地から輸入していた。そうした物資の出入りを管理していたのが横浜税関であり、そのトップが税関長の水上浩躬(みなかみひろみ)であった。横浜は大消費地東京をひかえた日本随一の貿易港であり、その税関長は大蔵官僚として重要な役職にあった。図1は当時横浜で発行されていた風景絵葉書で、大桟橋から見た横浜税関の様子が写されている。はしけが行きかい、上屋倉庫には貨物が積み上げられている。後ろに見える建物が1885年建造の横浜税関本庁舎である。
 横浜の輸入品の一つとして台湾からの砂糖があげられるが、砂糖貿易を担っていたのが横浜華僑であった。当時の中華街には貿易店をはじめ、雑貨店、籐椅子店、両替商、料理店などが軒をつらねていた。図2もその頃の風景絵葉書で、中華街大通りの様子が写し出されている。通りの両側には煉瓦や木造の二階建ての建物がならんでいる。左手手前の建物は一階が人力車店で二階が中華料理店、右手手前には精肉店と海産物や菓子をあつかう雑貨店が見える。店の軒先には両替商や理髪店などの看板がかかり、中国服を着た人やはっぴ姿の日本人が歩いている。
 横浜華僑はおもに広東や上海からやってきた人々であるが、彼らは郷里の伝統や風俗を横浜に伝えた。中華街の一角に煉瓦造りの関帝廟を建て、中秋の祭や春節を祝い、劇場では粤劇(えつげき)などが上演された。また現在の山下町小公園の場所には清国総領事館があり、横浜と東京に暮らす華僑を管轄していた。当時日本には長崎、神戸、横浜に清国領事館がおかれ、それを束ねていたのが東京の清国公使館であった。その清国公使館で開かれた1902年3月3日の宴会で、清国公使蔡鈞(さいきん)と横浜税関長水上浩躬はいったいどのような中華料理に舌鼓をうったのであろうか。






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