中華街でニイハオ!
粋(IKI)






波多金蔵さん(インタビューアー曽峰英)

 中華街では顔なじみのこの人、40数年にわたってこの中華街の建設にあたってきた人である。むろん40〜50代の華僑二世よりこの街には詳しい人物だ。外見は気難しそうで少々取っつきにくさを感じさせる彼は、中華街で知らない人はいないというくらい顔が広い。しかし、どれだけの人達が本当の彼を知っているだろう…今日は彼の歴史を遡(さかのぼ)ってみたいと思う…。
 波多金蔵69歳。島根県隠岐の島で生まれる。
 小学6年生の時、職業軍人だった父に軍人になれと言われ、広島幼年学校を受験するが失敗。12歳の時父が死去、祖母がいる韓国へ母と行き工業学校の機械科に進む。しかし、以前の受験失敗に悔いがあったため、猛勉強を重ね工業高校を一番で卒業。昭和20年東京の陸軍士官学校を受け、念願かなって合格。だがしかし終戦の直前だった。

 韓国ソウルで陸軍士官学校の教育を受けていた時、ソ連軍が侵攻。兵隊として出されたが、ソウルを出たのはもう終戦後の20日だった。汽車で3日かけて着いたソ連国境にほど近い中国の通化では部隊長に「明日、武装解除だ。なんとか生きて帰れ」と言われ、岩塩を両ポケットいっぱいにもらい、1ヶ月間歩いてソウルまで帰ってきたという。戦後隠岐の島に帰る、この時18歳。

 昭和22年、縁あって韓国の工業学校時代の先生の取り計らいで東京へ行き、造園工事会社に2年間勤める。後に横浜の青柳組という建設会社に拾われ16年間勤務しこの頃から中華街との付き合いが始まる。昭和28年に中華街の裏通りにあったインド屋敷の建設にあたり、これを皮切りに中華街で最初に鉄筋コンクリートで店舗を建設した「広東飯店」、次に「香港菜館」と手がけ、昭和39年に独立、「大紀建設」を設立し今日まで総計約50件にも及ぶ店舗・ビルの建設に携わってきた。

 工業学校で学んだ漢文の授業がベースになり、中国文化にどんどんのめり込み中国が好きになった。長い間中華街の仕事ができたのもそれらがベースにあったからだと言う。

 なぜ一癖も二癖もある華僑一世にこんなにも信頼を得たのか、「あの頃の日本人は中国人をずいぶん怖がっていたんだよな」。そんな中、波多さんは建設にあたって華僑同士のトラブル等を逃げずに真面目に取り組んできたのだ。「おれが来ないとだめだって言うんだからおれは幸せだよ。」と華僑一世の時代を懐かしそうに振り返る。「やっぱり、お互い苦労してきているから通じるものがあるんだよな。」「ようするにおれはもう中国人なんだよ。」

 ところで波多さん、大紀建設で一番得意とするものはなんですか?「おれの頭がコンクリートだからな。おれんとこの鉄筋コンクリートは最高だよ。」「鉄筋コンクリートっていうのは人間の身体と同じで骨ばっかり太くたって肉がなければ本当の強さを発揮しないんだ。」

 昔ながらの職人気質を持つ波多さんはコンピューター導入が非常に理解しがたいらしい。「コンピューターで線引けばいいってもんじゃないんだ。建築っちゅうのは芸術なんだよ。」

 気難しそうに見える波多さんもワンカップ片手に最後まで気分よくインタビューに答えてくれました。しかし、根掘り葉掘りの私の尋問に耐えきれず「今天完了(中国語で終了の意味)。」でこのインタビューを終えたのだった。

 3日後に写真撮影で現場におじゃました時、おちゃめにも自分からヘルメットをかぶり、そばにいた大工さんをつかまえて「ほらおまえ仕事しろ、おれが横で指示するふりするから、あんたそこを撮ってくれよ。」と場面もセッテングしてくれたのだった。
 中華街で波多さんを見かけたら気軽に声をかけてくださいね。

 「異質な伝統や異なったモチーフ、思いがけない素材や技術を駆使した世界の民芸品は出会うこと自体、面白い。更に、民芸を生み出す民俗、フォークロアの中に少しでも入って行けると、もっともっと面白い。そこには、私達の現代の生活を問い直す何かがある。世界を見ているつもりが、私自身を、日本人を見直していることが意外に多い。」
進藤幸彦:著「フォークロア世界への旅」より



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