中華街でニイハオ!
澄(SUMI)



エディ藩さん(インタビューアー曽峰英)

 懐かしのピンクレディーやキャンディーズ、幼少時代を共に過ごしてきた私にとって、当時、彼女達の存在は希望の星であり、とにかく芸能人は遠い存在であった。そういう状況の中、ある日父が「鴻昌(こうしょう)の息子さんも芸能人だよ。」の一言で、会ったことがないその芸能人は、すでに私の中で「知人」「友達」と勝手にも身近な存在にしていた。

 つい4か月ぐらい前、彼は知人の結婚式でお祝いに駆けつけ歌を披露し、偶然にも私は、その席に居合わせていたのだった。イノシシのような体格のその芸能人が歌うブルースは、私に強烈な印象を与え、ブルースの奥深さが心に染みた。しかし、これがきっかけで今回のインタビューができたのではなく、霧笛楼副社長鈴木信春氏からの一本の電話が始まりだった…。

 それは横浜山手ライオンズクラブ主催による、根岸外国人墓地内の慰霊碑建造事業に寄付される鎮魂歌CD、作曲エディ藩さん、歌詞は推理作家の山崎洋子さんによってできた「丘の上のエンジェル」を紹介したいというもの。

 根岸外国人墓地、殺伐とした原っぱに、白い板っきれの十字架が建ち並び、「ごめんなさいね」と書き添えられているそこには、戦後の混乱期に、外人兵を愛した日本人女性との間にできた子供達が大勢埋葬されている。無理解に耐え切れなかった日本人女性、そのような時代ゆえに犠牲となった罪もない子供達のためのものだった。 「丘の上のエンジェル」の作曲を手がけた元ゴールデン・カップスのリーダー、エディ藩さん50歳。現在はシンガーソングライターとして活躍する傍ら、横浜の関内でブルース・ライブバー「ストーミー・マンデー」を経営する。

 初めてエレキ・ギターを手にしたのは15歳の時、先輩達のバンドを見て影響され、さらにアメリカンスクール時代には日本で発売されていないレコードを聴き、それ以上に影響を受ける。その後、野村イオンさん(元ゴダイゴの社長)、林康弘さん(聘珍楼の社長)の3人でバンド「ザ・ファナテックス」を結成。ギターは、生意気にも日本で買えば車一台買えるほどの代物の「フェンダーギター」を、香港で日本の3分の1で購入、それを持ってチャラチャラしていたという。後にそれが噂となり、ダンスパーティーや米軍基地のライブに出演、一晩で100ドル(当時1ドル360円)稼ぐほどだった。この時16歳。これを皮切りにエディさんの音楽人生が始まる。

 後にプロ入りを果たし、ゴールデンカップスでデビュー、「長い髪の少女」が爆発的にヒットし、当時のことを彼は「あの頃のおれ達は、SMAPよりもかっこよかったんだよ」、と目を輝かせる。71年に解散、最終メンバーには柳ジョージがいた。この時24歳。

 後に「横浜ホンキートンクブルース」が生まれ、横浜音楽祭で特別賞を受賞、今では横浜のスタンダードな歌になっている。

 ブルース、中国語で「澄色音」。この3つの文字でブルースがうまく表現されている。こよなくブルースを愛し、共に人生を歩む彼は、インタビューの終始もブルース一色である。彼は「ブルースはその時の感情でいくらでも表現できる音楽なんだ、和音の中で宇宙のように広がっていく、みんなそれに魅せられてやっているんだよ」。そんな彼が一番影響を受け続けている人物、故T・ボーン・ウォーカー、モダン・ブルース・ギターの父と呼ばれ、名曲「ストーミー・マンデー・ブルース」は彼のお店の名にもなっている。

 閉鎖的な黒人社会にブルースの息吹が芽生え始めた19世紀後半頃、ブルースはアフリカ系アメリカ人によって発せられた「アイデンティティーの主張」に他ならない。そこにブラックカルチャーの原点をも感じさせられる歴史的重要性が内包されている音楽である。日常の中で見失いかけていたピュアーな気持ちを喚起させてくれる最高の音楽に魅せられたエディ藩、これからもなお、ブルースと共に人生を歩む。



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