世界の街角で
官窯の里、景徳鎮はいま、…
絵と文 三好 道


 旅行の楽しさは現地に触れてこそ意義がある、と私は思う…。

 カオリンという磁器の原料になる粘土が、実は高嶺(カオリン)山という景徳鎮近くの山から産出したことから名付けられたということを知ってから、いつか必ずという思いがあった。そんな折、所用で出かける友人が声をかけてくれ、昨年10月、実現することとなった。

 高嶺山は、市の中心から50キロ位ということだったが、行けども行けどもそれらしき表示もなく通りすがりの人にたずねると、そこがすでに高嶺村で、特に何もないが坑口跡があるという。
 教えられたとおりに行くと「高嶺磁礦遺址」と書かれた上屋が一棟建っており、1989年公布となっていた。すぐ近くにある東屋(あずまや)の碑にも1990年建立と刻まれていた。碑の裏側には古代の著名な磁用原料の産地であること以外、詳しいことはほとんど記されていなかった。まあこんなものだろうと思いながらもちょっとがっかりしながら山を下りる。
 そんな時、同行のIさんが車を止めてもらい、下りて来た路をまた登り、息をはずませてカオリンらしき塊を持ち帰って来た。彼女もこのまま帰る気がしなかったのだろう。

 帰途昌江沿いの集落を通る。黒い丸瓦の屋根が歴史を感じさせ、写真を撮りたいので止めてもらう。村の中まで行ってみようということになり、ゾロゾロ細い路地をぬけ河沿いに出ると船着場だった。
 景徳鎮が官窯として栄えた明清の頃には、山から運んできた陶土をここで船に積み替えて運んだという。
 村の建物は時間が経ってはいるもののがっしりとし、軒の彫刻も凝ったものが多く、かすかに残る色彩からも当時の華やかさがしのばれた。
 船着場の前の碑には「憲」と書かれたカオリン輸送に関する詳細な法令が刻まれていた。
 石畳の路には一輪車で運んだのだろう轍(わだち)のあとが一本のくぼみのある線となって残っていた。今は訪れる人とてなく、橋の欄干には10人ほどの男たちが所在なげに腰掛けていた。あたりは静かで、われわれを見物に来た子供たちの声以外音らしきものはなかった。静寂の中からかつての一輪車のきしむ音、運輸労働者の集まる居酒屋のざわめきさえ聞こえるようだった。

 景徳鎮に来る途中立ち寄った上海博物館に展示されていた時を経た皇帝専用の美しい磁器と、時間の止まってしまったようなこの村の現実が渾然一体となって存在する中国という国のことを改めて思った。
 市内のたくさんある陶磁器工場の煙突からの煙は思ったより少なかった。技術革新によるものもあるが、市場経済の導入により、採算の悪い大型工場は閉鎖され、かつての職人が独立して小規模の工場を造り、従来の設備を借りて、それぞれ生産するという、小規模化が進んでいるということだった。
 まさに現在の日本の同業種の方向と同じだった。販売部門も同様で、陶磁器専門の友誼商店も民営に変わり、様相は一変したという話だった。
 一点ものの芸術作品は従来の流通ルートでなく、作家個人との直接取り引きがほとんどだった。当然のことながら公司は、輸出手続きを行うだけの存在となっていた。公司自身もふくれ上がった人員をいかにリストラするかで頭を痛めていた。自分の働いていた公司の入口で朝食の店を開いている女性労働者に会った。会社に出勤しても仕事がなく、完全にリストラされたわけではないが夫婦二人で八百元では食べるのが精一杯、子供の教育費もでないのでアルバイトをしているのだという。

 一方作家と呼ばれる人たちは市場経済導入で自由に売買ができるようになり、各地で個展を開くなど活発な経済活動を展開し、作品の価格も大巾にアップした。
 高水準の作品に対して高い価格を設定するのは当然のことながら、価格というものが一度上がったら下がらないものとか、作家の中国国内の地位上昇が絶対的な価格アップにつながるものでなくてはならないとした考えが根強く、価格は需給バランスによって絶えず変化するものだということを理解してもらうにはまだ多少時間を要するというのが現状のようだ。



目次ページへ戻る

横浜中華街
おいしさネットワーク