中華街でニイハオ!
直(NAO)


平岩波雄さん(インタビューアー曽峰英)


 横浜中華街といえば中華料理、と真っ先に頭に浮かぶ人が多い。しかし、中華料理店が占める率は3.5割程度、きらびやかで大きな目を引く中華料理店がメイン通りに軒を連ねているため中華料理店がひしめき合っているような印象が強く残る。現在中華街で各種商売を営む店舗は総計約600店舗、飲食店は約300軒、その中で中華料理店の数は約200軒、残りは肉屋、魚屋、八百屋、雑貨屋、薬局、洋品店、酒屋など中華街周辺に居住する人達の生活を支える店舗である。そのうち八百屋は6軒ある。

  1923年関東大震災発生、横浜中華街は破壊的被害を受け、中国人の人口は激減する。震災から5年、町の復興がほぼ終わる頃、横浜中華街に一人の少年が長野から奉公にやってきた。 彼の名は平岩波雄、現在84歳。1913年10月31日、長野県須坂で絹糸の仲買を営む両親の元で双子の長男として生まれた。高甫尋常小学校を卒業後、家を継ぐ気もなく、都会にあこがれていた少年は先生の紹介で1927年、当時中華街に3軒あった八百屋のうちの1軒、「信濃屋(現在は山下町小公園隣)」に小僧で入った。

 1940年平岩さん27歳、この年に独立、結婚、と順調に進み、翌年には一男をもうける。まずは東神奈川にある横浜青果商業協同組合に入り、トラック(クロガネの三輪車)で中華料理店などに配給していた。後に現在の20坪あまりの店を珠江飯店斜め前に構え、店の名を、自分も信州育ちだから奉公先と同じ「信濃屋」にしたという。現在では中華街周辺に4ヶ所の倉庫を持ち、20人の従業員を抱える。

 日本の野菜が主だった戦前、土地柄もあり、平岩さんは中国野菜に目を付け、店に来る中国人コックに中国野菜の種をもらい、磯子、根岸の農家に栽培を依頼して仕入れ、空芯菜(オンチョイ)、芥菜(ガイチョイ)、白菜(パクチョイ)などが店先を飾った。それが当たり、買い物客は10束、20束とまとめて買っていったという。なぜ戦時中に商売ができたのか、「召集令状がこなかったんです、兵役検査を受けたら寸足らずでね、おかげで安心して商売できましたよ」。1945年中華街は大空襲に見舞われ、家族は長野に疎開するが、中華街で商売を続けたいという一心で戻って来る。戦後は、現在元町にある輸入雑貨、食品を扱うスーパー「ユニオン」の共同経営を始めるなど、商売の浮き沈みが激しい中、先進的な発想で信濃屋は順調に躍進していった。
1968年ころ

 戦前からある日本人経営者の店は精肉の江戸清・武田屋・鶏鎌、酒屋の愛知屋・一石屋、八百屋のひらわた・池川・信濃屋(二軒)の計9軒。一方、中国人経営者はほとんどが仕立屋、理髪店で中華料理店は聘珍楼・萬珍楼・安楽園・平安楼・金陵・一楽・永楽軒の7軒だけだったという。特に仕立屋は繁盛期には約200軒に上っている。戦前からの中華街を知る人は今では少なく、平岩さんは当時の中華街の様子をこう語っている。「若い時分は中華料理なんか食べに行けませんでしたよ、戦後しばらく経ってからですね、同発の50銭の陽州麺(五目そば)ばっかり食べてました。」「今の市場通りはね、昔は市場通りなんて名称もなければ店なんかほとんどなくてね、みんな食材をトラックに載せて来ては、あの一角で売買していたんですよ。」ようはそこで市が立ったということで『市場通り』になったらしい。

 「こんなに良い町ないよ、商売しやすいし、他の町のように派閥がない、排他的じゃないんですよ。だから自分は日本人町よりも住みやすくて好きなんです。」と話す平岩さんの今の楽しみは、朝昼晩毎の食事に、必ず日本酒のおかんをお銚子で一本いただくこと。

  店先の一番目立つところに中国野菜を並べ、買い物客には料理法を説明するなど中国野菜の紹介にきょうも店に立つ。



目次ページへ戻る

横浜中華街
おいしさネットワーク