中華街でニイハオ!
紀  KI


原見榮さん

 横浜中華街大通り中ほどにある更生堂薬局、中国料理店の大店がひしめく大通りにデンと構える薬の店。さすが中華街、漢方の店が街に風格を添える。この店、知る人ぞ知る水虫専門薬「更生堂ヨード」の製造発売元である。 この更生堂薬局のご主人が、薬剤師原見榮(はらみさかえ)さん、1927年生まれ、72歳である。
 「更生堂薬局は養母の原見ヒサノが店を出しました。初めは斜め向かい、今の同発菓子部あたりでしょうか。」と、1930年代初めの中華街、更生堂の写真を見ながら榮さんは穏やかに話す。
 養母原見ヒサノさん、1889年生まれの和歌山の人。結婚後ご主人の医院の薬局を手伝っていたが、自活をめざし、35歳のときに東京の薬学専門学校に入学したという。卒業後学校を手伝い、馬車道の漢方薬局清水平安堂や山元町のサカイ屋薬局で薬剤師をしたのち、独立したいと山下町、中華街に店を出した。1932年である。土地は中華街の有力者、温炳臣さんが力になってくれた。その当時の中華街は怖い町と言われていたという。「中華街の人で薬を欲しがっている人多いけど薬局を出す人がいないと聞いたそうです。中華街は男の人でも怖いところだったといいますけど、母は、日本人と中国人を平等に扱い、優しくすれば大丈夫、と店を出したと言っていましたね。」それでも開業当時の名刺には「原見久能」と男勝りの漢字が刷られていたという。「不用心だと考えたんでしょう。」と榮さんは母を遠く思い、語る。明治生まれの女丈夫(じょじょうふ)というところだが、ふっくらして優しそうなヒサノさんを覚えている中華街の人はまだ多い。
 45年5月の横浜大空襲で焼け野原になった中華街を後に、ヒサノさんは一度和歌山へ帰るが、9月には戻って土地の手当てをする。今の蘇州小路に開いた薬局はバラック建て、親類筋の榮さんを呼び寄せたのは46年であった。
 「私、よく地理の写真を見て海外へあこがれていて、東京より横浜に魅力あったの。母は苦労しているから、いい人で優しい人と、みなに言われていましたよ。私は実母を亡くしたばかりで母のような人が欲しかったのか…、喜んで横浜へ来ました。」「母は、何もないところによく来てくれたと喜んでくれ、かわいがってもらいました。」と振り返る。和歌山で育った榮さん、村長をしていた父を早く亡くし、苦労した母を見て育つ。農学校へ通い、いずれ旧満州へ渡ることを夢見る青年だった。
 榮さんは明治薬科大学を51年に卒業する。52年は朝鮮戦争特需、「ぶどう酒で大分もうかったよ。」と笑う。そのころぶどう酒は薬店の一手販売、一升びんを下げて買いに来る外人バーの人に漏斗で小分けして売ってもうけたというわけ。「配給のモンサントのサッカリンも高く売れましたね。」「穀物検査所の上はキャバレーだったし、今の同発新館は新光映画館、その隣はクラブ、今の珠江飯店の隣にはドイツ・シェーリングという薬屋があったね。」と話が弾む。当時の中華街は今とはまた違うにぎやかな街であったよう。
 現在、更生堂がある所は、その昔、聘珍楼があった場所の一角、57年に移ってきた。「母が、やはり大通りでないと、というので親孝行のつもりでした。」「2、3日カーテンが閉まっている所があると、『ここ売りませんか』と声をかけて怒られたこともあります。」
 更生堂オリジナルの水虫の薬は、戦前からあったものを榮さんが改良した。ヨードサリチル酸が主成分のこの薬、横浜の名士といわれる人々が使い、口コミで宣伝してくれた。観光で中華街に来て買い、効くので地方から発送を依頼する人も多く、愛用者は全国に広がる。
 奥さん、息子、娘、娘のご主人とみな薬剤師。中華街にしっかりと根を下ろし、中華街と共に生きてきた日本人の歴史を垣間見る時、この街、中華街の懐の深さを思う。「この街はいったん入り込むとほんと住みやすい、いい街ですよ。」
(インタビュー 新倉洋子)

     



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